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福祉に生きた母、矢吹久子 ~母の葬儀に際し母の人生を振り返って~ 矢吹栄修

 母、矢吹久子(旧姓渡辺)は、昭和九年四月二十九日、現白鷹町荒砥の地で、父渡辺常三郎、母ミノの十番目の末子として生まれた。
 十番目の子どもということで、時代もあって国から表彰されたそうだが、だいぶ痩せて産まれたようで、育つかどうか危ぶまれたようだ。しかも生後十八日で父常三郎が亡くなってしまう。しかし、豪傑のミノの女手と、年の離れた兄姉たちの支えですくすくと大きく育った。昭和一桁生まれの女性としては、かなり背も高かった方だろう。
 当時は珍しかったと思うが、ピアノのレッスンも受けていた。かなり一生懸命に取り組んでいたらしく、高校では混声合唱でコンクールに入賞し、専門学校時代も保育の実践に音楽を十分に活かしていく。後に娘達にもピアノを教え、生涯音楽には親しむことになる。
 本人は自分を過大評価しない人だったが、かなり聡明だったようである。県立長井高校に入学し、卒業後一時は山交バスに就職しバスガールとなったが、下働きの多い職になじまなかったようだ。
 その後、福島県立保育専門学校に入学が認められ、本人は大喜びしたという。当時の女性としては進学はかなり珍しいことだった。しかも福島県の全額県費での奨学生としての入学で、山形県からは二人だけ、福島県外からは五人だけだったというから、優秀だったということだろう。父が亡くなっていたため、生活費などは年の離れた兄姉たちが支援してくれたと感謝していた。この「保専」は、母にとって青春そのものだったようで、保専の同級会はついこの夏まで開かれ、あたかも朝ドラのヒロインたちが青春を振り返るように、集まっては当時の歌を歌い合ったりしていた。
 卒業後の昭和三十六年、山形県職員として青鳥学園に勤めることとなった。県職員として奉職できたのも、当時は大学を卒業した保育の人材がいなかったため、優先的に就職できたらしい。
 そしてこれが、福祉に生きる母の生涯を決定づけたと言える。
 青鳥学園は、盲聾の子どもたちの寄宿学校であった。目の見えない子と耳の聞こえない子の学校だが、母は子どもたちが本当にかわいくて、仕事が楽しくて楽しくてしょうがなかったという。仕事としては当時が一番充実していたようで、同僚の方々とは長く交流があり、教え子も卒業してから慕ってくれる方が多くいた。私が小さい頃は、教え子がうちに遊びに来て手話で会話しているのを見て、母を誇らしく思ったものだ。
 母は保護者などにむけた「青鳥学園だより」に創刊から携わった。A3版ほどのガリ版刷りの新聞だが、これを母はすべて六十年近くとっており、それを今年、冊子にまとめて本にした。青鳥学園はすでになく、当時の資料はもちろん散逸しているから、非常に貴重な資料である。これを県の福祉部門十数カ所に寄付した。それを成し遂げた年に逝くというのも、母の青鳥学園に対する想いを表しているようだ。
 青鳥学園に就職した数え二十八才のとき、母は天童妙法寺の住職、矢吹海慶と結婚する。
 山形市高瀬の法伝寺さんでの見合いだったが、裸電球一つしかない部屋では綺麗に見えたが、外に出てみたら色黒なのがわかってガッカリした、などという酷いことを父海慶はよく話したものだ。その後、山形の玄妙寺に二人でおもむき、父の生涯の兄貴分であった畑栄運上人と澄子夫人に、「寺ほどいいものはない」と勧められた。これで決意が固まり、二人は偕老同穴の契りを結ぶ。
 ガッカリしたのはお互い様だったようで、新婚旅行の際、今では信じられないことに檀家さんと一緒に本山身延山への旅行だったそうだが、その時に電車に乗り遅れそうになり、父から大声で怒鳴られ、窓から電車に飛び乗ったそうで、「結婚したのは失敗だったかな」と思ったようである。
 しかし、母が父に感謝していたのは、仕事を続けさせてくれたことだという。
 母は青鳥学園の仕事が充実していた。今では普通だが、結婚したら女は家庭に入るのが普通だった時代、仕事を続けられるのが嬉しかったそうだ。
 母が仕事を続けたのは、妙法寺と矢吹家にとっても大きな意義をもった。復興途中の妙法寺にとって母の収入は貴重なものだったし、その意味では母は父の妙法寺中興を支えた功労者と言えるだろう。母が仕事に従事する分、祖母が寺を守るという形だった。
 とはいえ、忙しい仕事のかたわら、母は父の法務をよく支えた。父は若いころ運転免許証を持っていなかったから、お盆の棚経はいつも母の運転でまわった。妙法寺の伝統である寒行も、仕事終わりに天童市中を寒中に二時間、太鼓を叩いてまわった。とくに父は昭和五十三年から五年間本山身延山に勤務したため寺を不在にしていたし、その後、日蓮宗大荒行に三度も入行して五行成満を果たしているから、父の不在中の百日間、留守の寺を守るのは大変な苦労だったろう。それでも母は、総代世話人さんはじめ皆すばらしい方々と親戚づきあいをさせてもらったことに感謝していた。
 だけでなく、父は天童市民文化会館初代館長、ロータリークラブ、倫理法人会、いのちの電話、佐藤千夜子杯など、枚挙にいとまがないほど文化芸術関係や社会活動に関わってきたから、それは母の支えがなければ絶対に成し得なかったことだろう。父は福祉関係の活動も多いが、むしろその活動は生涯を福祉に捧げた母と父の二人三脚の活動だった。
 昭和三十七年に長女典子、昭和四十年に次女尚子、昭和四十三年に三女朋子が生まれた。矢吹家にとってめでたいことこの上ないことであった。まさに女三人、賑やかな「姦しい」家庭が築かれていった。
 ただ、なかなか男が生まれず、父は諦めかけたこともあったそうだ。しかし、ここでも後押ししてくれたのは、畑栄運上人だった。「天童、まだ四十だべ。もう一人頑張れ」と励まされた。母は満四十歳であり、当時からすれば高齢出産で危険もあったが、無事、私修一(幼名)が生まれた。
 当時は三日に一回は夜勤があって学園に宿泊しなければならなかったし、家事は全て母がやってくれていたから、かなりの苦労があったことだろう。母には感謝しかない。
 ただ、姉尚子が宿泊勤務に出ようとする母に「学園しゃいぐなー」と泣いてすがっても、青鳥学園に行くのが楽しみでしょうがなかったというから、それだけ我が子同様に学園の子どもたちに慈愛を向けていたのだろう。
 仕事と子育ての両立の中で、私たち姉弟は幼少期を過ごしたが、母が十六年の青鳥学園の勤務から最上学園に転勤になり、次年の昭和五十三年に山形市の点字図書館に配属されてからは、泊まりもなくなり、少し生活リズムも安定してきたように思う。点字図書館に十四年勤めた後、母は平成四年に県職員を早期退職した。
 その際に、退職金の大部分を、妙法寺の庫裏建設のために寄付した。自宅を建てたと言われればそれまでだが、矢吹家の財産になるわけでもなく、私が住職を継がなければ、その庫裏には住めない。戒名の「院号」とは、寺に「院」を寄付するほどの功績があった人、というのが本義だが、母は妙法寺にとってまさしくその号に値するだろう。
 また、後に永代供養堂を建設したときも、父は境内南部の入り口付近に建設するつもりだったのに母は大反対し、無縁となった墓石を積み上げた無縁塔を整地し、そこに建設すべきと主張した。結果的に桜の木の下の永代供養堂は大正解であったと、父は非常に母に感謝している。
 在職中から母は茶道や剣詩舞などを楽しみ、父とともに多く海外旅行や国内旅行に出かけた。退職後は大正琴などの趣味にいそしみ、音楽にながく親しんだ。
 と同時に、天童市の福祉団体の理事を長く勤めるなど、福祉分野への貢献も続けた。理事としてわずかに出ていた報酬は、ずっと貯めておいて、理事退任後に多額の寄付も行った。
 こうした功績から、平成二十七年、全国社会福祉協議会から表彰を受けた。全国表彰は希なことであり、母の福祉分野への貢献のあつさを表している。
 母は十人兄妹だったために、親戚の数は本当に多く、東京のとく、荒谷のとよ、荒砥のよね、郡山のまさ、の姉たちとは長らく仲良く交流していた。その中でも、地元天童の荒谷に嫁いだ姉とよと渡辺家の面々とは、親しくさせてもらってきた。十番目の末っ子だから仕方がないが、すべての兄姉に先立たれて本当に淋しそうだった。また父の親戚である土田家・緑川家の皆さんにも本当にお世話になった。
 小学校から高校までの同窓生の方々や保育専門学校の同級生の方々、青鳥学園の同僚の方々と教え子の皆さまには、長らくのお付き合いを頂いた。また、趣味の音楽などでお付き合いが始まったお友達、私の野球部の保護者の方々など、最期までしょっちゅう夕食をともにして頂いた。
 母は、軽い脳梗塞や、腰の圧迫骨折、胆嚢癌など、いくつか病を経験したが、それも克服してきた。特に私が荒行に入っていたとき乳がんが発覚したが、私に心配させないために周りにも一切秘密にしていた。おかげで修行に集中することができた。子のために様々なものを犠牲にしてくれた母に、改めて感謝しかない。
 父と母の関係を言えば、とにかくよくケンカする夫婦であった。しょっちゅう上人は母を怒鳴っていた。しかしそんなにケンカをしつつ、父は内心では感謝していた。父が舌ガンの手術で助かるかどうかという時、手術台に乗りながら「俺の人生はお前がいたから歩んでこれた」ということを母に言ったらしい。
 逆に母も、あれだけ怒鳴られながら、常に父の体調を心配し、ずっと「私、お上人がいないとダメなのよ」といつも言っていた。「お上人がいなくなったら私も死ぬ」とか「お上人より一日でも早く死にたい」とも語っていた。六十年以上も連れ添ってきた夫婦には、我々にはわからない絆があったのだろう。
 今年に入って、母は少し物忘れをするようになった。本人としては、ものが分からなくなる自分への情けなさや恐怖を感じていたようだ。私と姉の尚子で病院に連れていってリハビリを始めたところだったが、「娘と息子にこんな風にしてもらって幸せ」などと言ってくれて、少しは親孝行できたかと思う。
 父も怒鳴りながらも母をよく支えてくれた。父も体調が悪い状態だったため、必死に面倒を見ていた。母もかなり感謝していた。最期に際しては「久子に感謝してる」と吐露していた。
 十一月八日、昼間私がリハビリに連れて行き、姉尚子が薬を仕分けしてくれて、夜には父とワインで乾杯して食事した。ウクライナやガザ地区の心配を母は口にしたそうで、父は「そんな世界平和のことはどうでもいい、この二人の時間と会話の方が大事だ」と言ったそうだ。母は少し寝ると言って、そのまま脳梗塞で目を覚まさなかった。
 県立中央病院に運んだが意識が戻ることはないとの診断であった。母は生前中いつも尊厳死の話をしており、延命治療を行わないことを決断した。姉朋子や孫が絶えず面会に来て数週間後、十二月二日十三時二十分、カナダの姉典子が帰ってくるのを待っていたように姉の到着後の数分後に、父と家族に看取られて眠るように逝った。
 「一日でも私の方が早く死にたい」と言っていた父と乾杯して、望んでいたピンピンコロリができ、苦しまずに尊厳死を迎えられた。何歳になってもそれでいいとか悲しくないということはないが、本人にとっても家族にとっても満足のいく逝き方だったと思う。

 福祉に生涯を捧げ、慈愛に満ちた母でした。
 青鳥学園への思いから「青」の字と、泥に咲く美しさから悟りを表す「蓮」の字をつけ「青蓮院」。それはすなわち妙法蓮華経を信仰する我々にとって最高の蓮華の院号です。そして慈しみ海の如くであり、夫海慶上人から一字をつけて「慈海」。日蓮聖人の弟子である我々は「日」の一字をもらい、俗名の「久」をつけて、女性最高の「清大姉」の称をおくり、「青蓮院慈海日久清大姉」と戒名をつけさせて頂きました。
 たくさんの人からお世話になり、たくさんの人から愛されました。本当にありがとうございました。
 そして、私も生前中あまり伝えられませんでしたが、本当に母が大好きで感謝しています。母の子で良かったと思います。これは家族一同の思いです。
 本日はご会葬賜り、ありがとうございました。

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