晩茶と民藝(1)島根・ぼてぼて茶
晩茶(伝統製法で作られる番茶)と民藝は地理的にも成り立ち的にも近くにありながら、改めてお互いを認識することは稀だ。
ぼてぼて茶について調べていたら、昭和7年の工藝18号に行き当たった。この号の特集は布志名焼で、ぼてぼて茶碗が接点になっている。
この茶碗は中村羊一郎氏の「番茶と庶民喫茶史」にはゴシ茶碗として紹介されているが、これは呉須茶碗が訛ったものだ。ぼてぼて茶碗は緑釉、飴釉、黄釉が多く呉須ではないのだが、これは初期に使われた伊万里の呉須茶碗の名がそのまま流用されているからだろうと推測されている。黄呉須には宝珠の文様が施されているものが多い。元々は口が広く胴がしまっていたが、泡立てる際こぼれにくいように、口がやや閉まり胴が張った形になったようである。
ぼてぼて茶の茶については詳しく書かれていないが「番茶と庶民喫茶史」によると陰干し茶が使われていたようだ。茶の花の咲く頃に枝ごと刈り取って陰干しにする。飲むときは茶葉を軽く炒って、茶花も入れて煮出す。この後塩を入れ、ささら型茶筅で泡立てるのだが、泡立つために必要なサポニンは番茶には少なくこれを花で補っている。
現在ではほうじ茶に乾燥した花を入れてぼてぼて茶を作るが、当時は花と茶が同時に手に入る花の咲く時期に刈り取るのが合理的だったのだろう。さらに、10月末なら葉の生育は止まり十分硬化しているため酸化酵素が働きにくく陰干しでも青い茶ができる。原初の製法と言われがちだが、燃料も要らず手間もかからず、この点でもまた合理的と言えるのではないだろうか。
太田直行によるとぼてぼて茶の習慣は昭和7年当時、島根では既に廃れていたようである。ぼてぼて茶の名称を使っているのも50代以下で古老はみな桶茶と呼んでいたというのも興味深い。
島根におけるルーツは、松江藩藩祖松平直政が開いた天林寺二代唯山和尚とし、普及については少ない食料を食い延ばして飢えを凌ぐ経済的関係からだったと推測している。茶粥にも同じ効果があるが、泡がある方がより満腹感を得られやすいのは確かである。大石はぼてぼて茶を立てるさまを次のように表現している「抹茶のやうに手先で立てず、前膊全體を動かしながら茶筌で茶碗の縁を叩くやうにして立てる」風流とか楽しげといったものとは異なる印象を私は受ける。
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