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【労働と休暇論】人はなぜ働くのか。なぜ休むのか。

イントロダクション

人間みんな努力する。立ち止まらなければ大きな差がつくこともないだろう。ただ、人間は立ち止まるのだ。それは必要な休止かもしれない。でも、それは自分で決めるべきではないだろうか?個人によって必要な休息の期間・間隔・方法は異なるのが当然だろう。それを社会に、国に決められた休みに従って"この日は休みだから休む"という感覚には違和感を覚えずにはいられない。

もちろん、"休みの日!"と決めて休む時間も必要ではあるし、自分も定期的に必要としている時間である。この時間によって日々の生産性や自己効力感、QOLなどと評される類が大きく向上することさえある。しかし、しかしだ。自分に必要な休息を自分で理解する努力をし、試行錯誤のうちに自分に必要な休息を見極め、その時間を自分で主体的に選択している人は一体どのくらいいるのだろうか?

とは言っても普段から忙しいんだ、休みの日くらい休ませてくれ。別に今の休日制度に不満はないから考えたことない。という人もいるだろう。別に悪いことではない。むしろ現状の"休日"に全く不満がない、日々自分の好きなように生きられているという人たちにとっては今回の問題提起はささらない。というより、現状そこに思考リソースを割く価値がない。

今回ターゲットなのは、過去の自分も含む「何となく休みの日休んでるけど、満足に休めてない」とか、「平日は休日をただ待つだけの日々」とか、「休みの日にだらだらすることに罪悪感を感じる」という人々であろう。今もゼロではないが、過去の自分はまさにこんなネガティブ感情にズブズブに浸った休日を過ごしていた。休日を謳歌する、などの言葉とは正反対の毎日。何かが違うと思いながらも、忙しい日々を言い訳に考えることを放棄していた。

なぜこのように感じるのか。それはこの一点に尽きると思う。「平日はタスク、休日がプロジェクト」なのだ。つまり、平日はやらされている学業ややらなければならない仕事をする時間、休日こそが趣味などの自分のやりたいことをやる"本当の自分の人生"なのだと。この感覚、言い換えると"休日のために平日がある"という価値観が全ての元凶である。

あえて広く言うと、いかに充実した日々を送るか?幸せを感じられる生とは何か?と言うのがこのnoteの主題である。


1. ワークライフバランスの弊害と休日制度の歴史

ワークライフバランス

最近のワークライフバランス、という言葉はこの思想をベースにしている。つまり、平日はなるべく早く過ぎ去るべきものであり、休日は長く感じるように充実させるべきであると。平日は休日のためにあるのならば、平日は短い方がいいし、休日は長い方がいい。平日である会社の時間よりも休日である家の時間が長い方がいい。週休3日やリモートワーク、ノマドワーカーが一世を風靡するのは、この思想が芯に流れている人からしたら当然であっただろう。しかし、しかしそれでいいのであろうか。別にハードワークを推奨しているわけではない。平日のポテンシャルを過小評価し、休日を過大評価しすぎているのではないか?ということが今回の課題定義の根幹である。

休日制度の起源

そもそも、今の休日制度はなぜ週休二日になっているのだったのだろうか。あえて調べず、自分の考えを述べるので、気になる人はちゃんと調べて欲しい。僕が想像するに、この休日制度は明治維新以降の工業化、さらには教育の一律化に伴って形成されていったと考える。江戸時代以前の人々は基本的に自分の親がやっている職業を継ぐことが多い。餅屋の子は餅屋、武士の子は武士、漁師の子は漁師と言った具合である。こういった文化の場合、子供の教育は親や地域のコミュニティがメインで担当し、それぞれが仕事をしながら子供の教育を行うのである。そして親と同じ職業で独り立ちし、それぞれの職業を活用してコミュニティへ貢献していく。しかし、工業化に伴い一定の教育水準を持った子どもを学校に集めて一元的に教育し、工場などで滞りなく生産活動を行う"部品"に仕立て上げるのである。その場合での教育や工場での仕事は以前の職業のようにコミュニティ内に貢献している感覚を感じにくいため仕事のやりがいを感じにくく、不満が溜まりやすい。その不満や鬱憤を晴らすために週に固定の休日という形で、定期的にガス抜きの時間が設けられた、と考えるのが自然ではなかろうか。もちろん週に休みが2日なのは、100年前後の試行錯誤があったのちに落ち着いた妥協点なのだろう。

週休3日時代、到来!?

ここまでの週休2日の歴史を一旦前提として、今週休3日が叫ばれている背景はなんだろうか。この問題を聞くたびに、大きく職業選択の自由が広がり、IT系エンジニアを筆頭に台頭してきている新たな職業もあるが、あくまで国を支えるための労働者としての"部品"でしかないのだということを否応なしに感じる。そして、平日は休日のために仕方なく働く、という「ワークライフバランス」の根幹の思想に行き着く。これは顕在的か潜在的かはわからないが、経営者も正社員もアルバイトも会社に雇われているという点で同じように感じる点である。ただ、この思想で働くことは虚しくないだろうか。週休3日が叫ばれているのは、後述するが働く意味から"成長"の割合が減少しているから、仕事に感じている価値の総量が減少している人が多いからなのではないか。

2. なぜ僕たちは働くのか?

ここで改めて平日のポテンシャルを過小評価し、休日を過大評価しすぎているのではないか?という本題の問いに立ち戻りたい。ここからは「仕事は"タスク"なのか?」という疑問に対して、根本の仕事とは何か?という問いから深掘りしていく。

仕事ってなんだろう

まず、そもそも仕事の起源とは何か?
それは、人間がコミュニティを前提とする社会的な生き物であることに由来している。農耕文化よりはるか以前、定住せずに暮らしていた人類は今よりはるかに人口密度も低く、安全な家を建築する能力もないため、孤立=死であった。つまり生存戦略として集団で群れを作る必要があった。コミュニティとして暮らす上で、全員が狩りをして、家を作り、料理をして、武器を研ぐのは効率が悪い。それぞれの適性を活かして分業するのが効率的であった。また、個人個人が相互依存関係になることにより、コミュニティへの帰属意識も高まったと考えられる。

この分業をベースにした職業の仕組みは現在も続いていると考えられる。ただ、昔の人々はそれぞれの仕事を"タスク"と捉えていただろうか?つまり、やらないといけないからイヤイヤやっていたのだろうか?
そんなことはないと思う。その人が狩りをしないとみんなが死んでしまう、という緊急性やさぼっているとコミュニティから追い出される(=死)という必然性などの違いもあるとは思うが、本質的には"この仕事をすることで自分がコミュニティに貢献している"、言い換えると"自分はここに存在しても良い存在なのだ"という存在の承認であったのではないだろうか。それを自覚していたのかどうかに関わらず、仕事をすることはむしろ悦びだったのではないか。

仕事に対する価値観

では、いつから人間社会の中で"仕事=タスク"になってしまったのか?

ここに関しては幼稚園生の頃から、小さいながらに疑問を持っていた。なぜ仕事を楽しそうにしている大人が少ないのか?戦争が終わって平和になった、物質的にも豊かになった、餓死する人間はほとんどいなくなった、そんな社会でなぜ人々は幸せそうではないのか?

ここまで言語化できていたわけではないが、大学生になるまでずっとモヤモヤした感覚はあった。

昔から、仕事を本気で楽しそうに話してくれるのは母方の祖父だけであった。両親は仕事に責任感は強かったものの、やりがいで動くというよりは"やらなければならないものだから"という動機が強かったように見えた。それから小中高と進んだが、やりがいを持って心から仕事を楽しんでいそうな大人、とは言っても学校の先生や塾の講師、コンビニや飲食店の店員になるのだが、仕事を本気でやってる大人には出会えなかった。転機となったのは大学生になってからやったスターバックスでのアルバイトだった。そこでは本当にスターバックスが好きで、最低時給にも関わらず一流ホテルと同等かそれ以上の"おもてなし"接客を当たり前に行っていたのだ。所属していた大阪の店舗が特にロイヤリティが高くバリスタ同士、お客さんとバリスタ、お客さん同士の繋がりが濃かったのは東京に出てから知ることになるのだが、本当に愛を持って働いている人が多かった。全く"アルバイト"という感覚ではなく、この店舗を、この空間を作り上げているのは自分なのだと当事者意識を強く持ってみんな業務に取り組んでいた。そこではカフェで働くことは"タスク"ではなく"プロジェクト"であった。その空間に自分も1年半所属し、幼少期からモヤモヤしていた感情に妙に納得がいった。仕事はどう自分が捉えるかで"タスク"にも"プロジェクト"にもなりうる。でも、せっかく働くのであれば"プロジェクト"であるべきではないだろうか。コミュニティへの帰属感を持ち、"自分がここにいても良いのだ"と思うために働くべきではないのか。

今の日本の空気感

今の社会にももちろん"プロジェクト"として仕事を捉えている人もたくさんいるとは思う。ただ、多くの人が"仕事=給料をもらうためにイヤイヤやること"になってしまっていないだろうか?この社会全体を覆う閉塞感はなんだろうか?なぜメトロや山手線で通勤でしているビジネスパーソンの目は十中八九死んでいるのだろうか?

少し前に振り返った"部品"としての分業が始まった明治以降で、なぜ今さらこの問題への関心が高くなっているのか?それは昭和以前の日本人は"働いたら明日が良くなる"と本気で信じれたからであろう。人間は成長していくこと、もっというと"将来の理想の社会"を追いかけている時は存在に価値を感じるのである。自分が成長し、生産していくことで社会が好転する、それだけで自身が働く価値になった。戦後からバブルが弾けるまでは特にそうであろう。バブルが弾け、"失われた30年"と呼ばれる期間を経験した今の生産年齢層は"成長"を知らないのである。本質的には"成長"を知らないのではなく、"成長した先の理想の社会"のイメージがない。つまり成長するべき理由もわからなければ方法も体験したことがないし、成長することでの将来への希望感もわからないのである。発展への駆動力が何もない。そんな状況では働く価値は社会に求めることができなくなる。これまでの歴史上初めて、個人が"働く意味"を言語化する必要が出てきたのである。働く意味を健全に言語化できなかった人はどうなるか。「意味などないけど、必要なことだから」と自分に言い聞かせるのである。

意味もない行動をすることに人間は強いストレスを感じる。一番苦しい刑は肉体仕事ではない、扉も窓もない真っ白の部屋で何もできない状態にしておくことだ、ということは有名な話である。その状況になると、人間は数日のうちに自傷行為を始めて自殺に至る。意味もない仕事をすることが苦痛である。しかし社会的な成長、主の繁栄というこれまでの拠り所が部分的に失われている現代の日本では、自分で自分が働く意味、ひいては生きる意味を言語化して信じるしかない。それは神の信仰でも宗教的な人への盲目的な信頼でも自分で言語化したことを信じることでも本質的には同じことである。

「仕事に意味などないけれど、必要なことだから」と意味を放棄しても何も問題なく生きていける。不幸ではないだろう。ただ、その状態は本当に幸せなのだろうか?幸せになる努力をしている状態なのであろうか?

「人生の鍵を握るのはあなた自身よ。自分の幸せに向けてパスポートを持ち歩くの」
You are the one that possesses the keys to your being. You carry the passport to your own happiness.

ダイアン・フォン・ファステンバーグ

人間は"幸せになる"ためにこれまで発展してきた、成長してきたと思う。大局的には理解が難しいかもしれないが、短期的に見たら、特に戦後の日本人や今の発展途上国ではそうであろう。今日努力したら、もっと給与が良くなる、家族に買ってあげれるものが増える、強いて言えば国が発展し、子供や孫、さらにはその次の世代は餓死に怯えず、買いたいものが買える社会になっているのではないか。その希望が人々を突き動かしてきたのではないか。

なのに。なのに。先代が望んだ未来が完璧ではないが大方実現されている現代に生きる我々が幸せを感じていないのはどうしてか。いや、幸せを感じる努力をしていないのはどうしてか。それはこれまでにたくさんの犠牲を払って作り上げてくれた先輩方に失礼ではないか。顔向けできないではないか。生物として生まれたからには過去に感謝し、過去を越え、将来にもっと良いバトンを繋ぐことが使命ではないのか。

現代の僕たちが諦めてしまったら、先代の努力を踏みにじってしまう。それだけはしてはならない。幸せになる努力を放棄してはならない。noblesse oblige。恵まれていることに足組みしてはならない。

共同体感覚

そもそも人間は、コミュニティに価値貢献して自分の価値を感じる生き物である。アドラー心理学でいうところの"共同体感覚"を広く深くしていくことに幸せを感じるのである。これは歴史が証明しているし、生物学的にも納得がいく。個人の体験的にもそうではないだろうか。他人のもものをとって自分だけ得をした時よりも、喜びを分かち合ったり、人に喜んで感謝された時の方が"自分がいても良いんだ"という安心感にも近いような幸せを感じないだろうか。

その感覚を感じれるように、日々を変えていくべきである。それは仕事に限らず金銭報酬が発生しない趣味や地域活動などの活動、ひいては行動の前の意識や思考も同様である。

そして"休み"というのはその感覚を最大限感じるための心のバッファや気分転換、新たな刺激を受ける時間として機能するべきである。

では、どうすれば広義の仕事、ここでは人に貢献しようとする営みの時間を増やせるのだろうか。同じ行動でも価値観を変えていけるのであろうか。

3. "貢献感"を感じる時間を増やすために

ここまで述べてきた"タスク"ではなく"プロジェクト"、"やらされ感"ではなく"貢献感"、"決められた"ではなく"主体的に決めた"というのは全て本質的には同じ事を言っている。

ここでは自分も完璧ではない中、少しでも具体的に"幸せになるために働く"という価値観に思想を変容し、幸福へ近づいていけるかの道筋を示そうと思う。

一生完璧な状態にはならないけど、一番大切な"決断"

まず最初に何よりも大切で、これがないと何も始まらない根幹を伝えたいと思う。それは、"幸せになる"と決めることである。もっと言うと、"幸せの定義の追求と、その状態になるための努力を辞めない"と言う意思決定である。これが意外と難しい。一朝一夕ではいかないし、楽な道のりではないかもしれないが、諦めたらそこで終了である。答えがない状態を問い続けることはどうしてもストレスがかかるけれども、どこまでも人間的である状態だと思うし、それを楽しめるようになると世界はもっと明るくなる。

具体的な行動リスト

その決意ができたら、もう正直あとは枝葉末節である。
・自分はどんな人間で、どんな人間になりたいのか?を言語化する
・やりたいことをリスト化して、スケジュールに組み込む(自分の人生の時間の使い方を自分で選択している割合を増やす)
・自分に嘘をつかないように行動する
・今生きていること、周りの環境に感謝して、今この瞬間を生きる

これらには終わりがないが、問い続ける、挑み続けることが大切である。
少しづつこれらの言語化が進み、行動が伴ってくると、"仕事"や"休み"に対する価値観も変わってくるのではないか。生死に逼迫した社会ではなく物質的にも恵まれた現代の日本では、どちらもあくまで自己実現の手段でしかない。

諦めそうになっても大丈夫。いつまでも遅いことはない。なんだって"今日が一番若い日"なのだから!

今から数年後、あなたはやったことよりも、やらなかったことに失望する。

マーク・トウェイン(小説家)

4. 年末年始は差をつける絶好の機会である

ここまで「平日は休日のためにある」という思想を根本から改め、「(広義の)働くために、休暇休息を取る」という価値観にアップデートしてきた。この価値観に則ると、年末年始の"休日"は休む必要があるのだろうか。正直この答えは人によるとしか言えない。あと、どこまで何をしていることを休みと定義しているかにも依るので、行動の強要はできない。ただ、ひたすらダラダラする、見たくもないショート動画やテレビの特番を垂れ流すぐらいであれば、もっと自分の人生に集中するべきではないか。年の区切りに1年の振り返りや来年の抱負を言語化しておくのもよし、久しぶりの友人に声をかけてもよし、自己実現のための勉学に励んでもよし、世界を広げるたびに出るでもよし。何をしていてもいいと思う。ただ、自分で選択した行動なのであれば、後悔することはないだろう。年末年始の休暇長かったけど何もできなかったな、仕事が始まるのが憂鬱である、という状態には間違いなくならないと断言できる。今年も充実した一年にしよう、前向きに日々に取り組もう、と気持ちの良いスタートが切れているはずである。

大切なのは”悩むフェーズ”と”進むフェーズ”を明確に分けることである。悩む時には心の底まで悩みきり、一度決めたらその道を突き進む。進んでみないとわからないことも多いはずなのに、ずっと悩み続けるのは時間の無駄になることも多い。進んでみて間違えていたら方向転換すればいいのだ。決めて断つ。勇気を持って決断しよう。

p.s. 結局ダラダラ書いてきて、「自分の人生に向き合って、主体的に行動を選択していこうぜ」ということしか伝えたいことがなかった。結局根本に行き着くんだろうなんだろうな。

明日死ぬかもと思うことができれば、今日に感謝できるようになるわ。

アンジェリーナ・ジョリー

5. おわりに

年末年始にこんな長文の文章を最後まで読んでしまったあなたは相当な暇人なのでしょう。末筆までお付き合い頂きありがとうございました。まだまだ自分も途上であり、もっと自分と社会を言語化していきたい、"ここにいても良いんだ"と思う人を増やしたい、歩みを止めたくない未熟者です。哲学同様、終わりのない営みであるとは思いますが、「なぜ生きるか」「なぜ行動する(=働く)のか」「どうすればもっと人に貢献できるのか」という問いに向き合い続けるスタンスがどんなスキルよりも大切だと思います。最後まで読んで頂いたことに重ねての感謝の意を申し上げながら、ぜひみなさんにやっておいてほしいネクストアクションを以下に提示します。

この年末年始でやってほしいアクションリスト

・2023年の振り返り(できれば1ヶ月づつ)
・2024年の抱負・目標宣言
・2024年やりたいことリスト100の作成
・大切な人に言葉で感謝を伝える(⭐️特にこれ⭐️)

ぜひ来年も最高の一年にしましょう。
それでは良いお年を!

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