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第6章「実感の湧かない進展」-2

 小山と菅谷は太陽信用金庫大森支店で作られた口座を捜査したが、申込用紙は電子処理された後で指紋の検出はできなかった。そして筆跡も似ているのが本人の筆跡かを判断するには正規の筆跡鑑定を依頼する必要があった。2人は赤羽交通に持参した履歴書を基に鑑定を依頼したが、すべてがコピーだったので鑑定士から、
「はっきりとした鑑定はできない」
 と断られた。この結果報告を終えると浅見は並木からの指示を伝えた。
「ハローワークですか?」
 小山と菅谷は少し驚いた反応を見せた。そんな反応を見せた2人に並木は、
「病院関係も潰したいから分かれて捜査してもいいし、病院からでも好きな方でいいぞ」
 というと2人はハローワークから捜査を始めた。すると早々に新井の記録に辿り着いた。やはりハローワーク、当時の職業安定所に通って仕事を探していた。当時の担当者はすでに退職していたが記録によれば、当時高度経済成長期であったこともあり、多くの企業から募集が寄せられていた。そのため誰もが早々に採用され、持病のあった新井でも採用してくれる企業があった。2人は早速記録に残されていた工場へと向かった。
 だが記録に残された町工場はやはりすでに廃業していた。付近に聞込みをしても当時の経営者らの行方を知る者はおらず、捜査は三度行き詰まった。しかし職業安定所に提出した記録には大きな情報が記載されていた。
 新井は持病を「喘息」と記載しており、肺を患っていたというのは喘息のことだった。そしてもう1つ大きな成果を得た。3番目の工場と思われる大田区内の町工場は当時、2名の募集をしていた。そしてハローワークの記録によれば「江畑弘」と言う人物にも同じ時期に同じ工場を紹介していた。
 この記録を見た小山は思わず、
「こいつだ!」
 と狭いハローワークの会議室で力一杯に叫んだ。会議室はハローワークの職員が小山たちのために準備してくれた6畳程度の部屋だったが、小山の声は表の事務室まで聞こえるほどだった。鼓膜が破けそうな大きな声を隣で聞いていた菅谷は、小山の見ていた資料をのぞき込んだ。すると菅谷も、
「間違いないですね」
 と頷いた。江畑は同じ長野県の出身で新井と出身地も近かったが「刑事の直感」が閃いたのは新井定一が1933年5月1日生まれで、江畑弘は1936年5月1日生まれと3年後の同じ日に生まれていたことだった。
 浅見は小山と菅谷の2人がハローワークの捜査をしていたので、佐藤と𠮷良の2人には病院捜査を下命した。2人は新井が入退院を繰り返していたことを考慮して来院のみを診療する病院は除外し、しかも土地勘のある大田区内の病院を重点に捜査した。
 そこに小山たちの捜査によって喘息と裏付けが取れたことで捜査は一気に進展すると期待された。だがその期待は裏切られ、捜査は思ったように進展しなかった。今でこそ電子システムで処理する時代だが当時は紙のカルテだった。しかも過去の患者は紙のカルテのまま保管され、デジタル処理をしている病院などなかった。
 佐藤たちは訪れた病院に自分たちで確認作業をすると申し出をしても、多くの病院が個人情報を理由に時間のある時に調べるという態度だった。そして病院の中には、
「当院の患者に間違いありませんか? 膨大な資料を手作業で探すのは大変な作業です。警察の捜査にはご協力したいのですが、通院していたのかもはっきりしない段階でのご協力は勘弁していただけませんでしょうか」
 と言い方こそ丁寧だが拒否する病院もあった。確かに通院していた時期は1963年前後で間違いないが、通院していたのかと問われると明確に答えられるはずもなかった。
 だが𠮷良はそんな病院関係者に対して、
「その患者さんは殺されて、今もどこかに埋められているかも分からないのです。冷たい土壌に墓石もなく、そして手を合せてくれる人さえいない被害者のためにもご協力をお願いできないでしょうか!」
 と頭を下げて懇願した。そしてそこまでお願いしても態度を変えない病院には、
「分かりました。では令状をお持ちしますので、その時はこうなった経緯をご自身で院長に説明していただきますが、それでもよろしいでしょうか?」
 と強気で交渉した。そんな𠮷良の迫力に押されるようにどの病院も1週間から10日で結果を連絡してきた。そしてついに大田区市民病院から、
「新井定一さんのカルテが見つかりました」
 との吉報が入った。
 佐藤と𠮷良は直ぐに病院へ向かうと、会議室のような場所に案内された。しばらく待っていると白衣を着た医師が2人の前に座り、
「担当されていた先生はすでにお辞めになっておりますので、代わって私の方からご説明させていただきます」
 とカルテに書かれていることを説明し始めた。
 新井は1962年11月17日に咳が酷く、呼吸をすると肺が苦しいという喘息と思われる症状を訴えて来院した。当時は同じ症状の患者も多く、直ぐに「喘息の可能性」を指摘され、通院が始まった。だが新井の症状は思った以上に酷く、1963年2月3日に入院したことがきっかけとなり、その後入退院を繰り返していた。
 だが1963年6月7日の通院予定日に来院せず、それを最後に通院が途絶えた状態になっていた。この予定日の3日後に本人に連絡をすると、
「改めて予約して伺います」
 という話になっていたが、その後も連絡はなかった。総合病院という大規模病院なので来院しなかった直後は連絡しても、その後の連絡までは気にしている余裕などなかったという。
「先生。本人が通院した最後の状態はどんな感じだったのでしょうか?」
「処方薬を見るとステロイド系の薬を使っていますけど……。入院していたくらいだから、あまり芳しくはなかったんじゃないかな……」
 医師がはっきりと答えなかったので佐藤は質問内容を変えて、
「喘息で死ぬことはないですよね」
 と尋ねた。すると医師は激越な表情を見せると、
「喘息を甘く見ない方がいいですよ。喘息の発作によって呼吸困難や過呼吸、そして酸欠などで命を落とす可能性もあります。したがって死ぬことはないなんていうのは安易に考え過ぎです」
 と強い口調だったので、直ぐに佐藤は、
「そうなんですか! 失礼しました」
 と謝罪して2人は医師に御礼を告げると病院をあとにした。
また市民病院以外の通院記録を期待したが、大田区内にある他の病院からの回答は通院記録がないとのことだった。そのため病院の地域を拡大する必要があった。
 会議室に戻って捜査結果を報告すると、佐藤と𠮷良はこれからどの地域の病院を捜査するか相談していた。2人の話を聞いていた菅谷は、
「大田区役所に保険の発行状況を調べてもらえばいいんじゃないでしょうか」
 とアドバイスをした。2人はその意味を尋ねると菅谷は、
「実は私は転職組で一度フリーターをしていたことがあるんですが、その場合は区役所が保険証を発行してくれるんです」
 と大田区役所の話をした理由を説明した。保険証は雇用されている会社が発行するのが基本だが、自営業や無職の場合などは居住する市町村が保険証を発行する。保険証は2009年に社会保険庁が廃止になりこれを日本年金機構に移管したが、現在は国民健康保険と社会保険、後期高齢者医療制度の3種類に大別される。
 新井の勤めていた工場が閉鎖となっていたことを考えると、大田区役所で国民健康保険を発給された可能性が高い。2人は菅谷の助言に従って大田区役所に保険証の発行状況を照会した。するとやはり失業後に大田区で国民健康保険発行の手続きをしていた。その新井が完治したのかは別にしても、少なくても赤羽交通では会社から発行された保険証での通院歴はなかった。
そして同じく江畑も大田区役所で国民健康保険証の発行を受けていたが、興味深いのは新井と同じ旋盤工場に就職した以降、江畑は国民健康保険証の発行を一度も受けていないことだった。
「では全員で長野へ飛んでくれ。長野では江畑の戸籍を佐藤部長たちが、集団就職で上京する前の足取りを小山部長たちが、そして浅見班長が責任者として現場で指揮してくれ」
 並木は保険証の捜査を終えた9月27日、たたみ掛けるように江畑の捜査に全員を投入した。そして川口中央警察署の増員2人に対しては、
「江畑はおそらく死亡している。大田区内にあるお寺を回って江畑の墓があるかを調べてもらえるか」
 と下命した。
江畑は長野県小諸市の出身で集団就職前に新井と接点があったのか確認する必要があった。地理的に考えれば今の時代では近いが、当時の距離感で言えば接点がない可能性の方が高い。
 殺害された新井が江畑であることを証明するため、浅見たちは小諸市で懸命になって捜査した。江畑も戦禍を逃れるために疎開したひとりで、その疎開先は新井の出身地である佐久市の隣町にある小諸市で、八ヶ岳高原線で繫がっている。小諸藩の城下町として栄え、長野新幹線が開通する前には信越本線を走る全特急列車が小諸駅に停車するほどの主要な市だった。
小山たちは小諸市に公文書館がないため、小学校や中学校を回って卒業アルバムのようなものを探したが戦時下という時代的な問題もあって集合写真1枚すら入手できなかった。
 一方の小諸市役所に戸籍の確認に行った佐藤たちはその場から、
「江畑はやはり死亡していました。死亡日は1965年5月19日で江畑の両親はその前に他界し、兄弟がいなかったことから戸籍は閉鎖されていました」
 と並木に報告した。これにより江畑は新井が入れ替わった日は1965年5月19日より前の数日の間であることが特定できた。
 死亡した場合、死亡診断書や埋葬許可書が必要になるが、当時であれば死んだ新井のことを江畑が、
「この人は江畑弘で私の同居人です」
と言えば江畑の死亡診断書が出た可能性が十分あった。当時は死亡しても検視をすることは稀で、さらには運転免許証を持っていなければ顔写真付きの証明書などもない。仮に病院で死亡したとしても江畑が自分の保険証を新井に使わせていれば、そのまま江畑の死亡診断書が出されていた可能性がある。特に保険証は顔写真がなく病院に江畑が付き添っていれば、同居人の説明がすべてだったに違いない。
 ただしこの場合は「事件性がない」ということが条件になる。逆に考えれば新井は「病死した」と考えられ、2人は合意の上で入れ替った可能性が高かった。
 殺害された新井は江畑であるのはほぼ間違いないが、この「ほぼ」を打ち消すために江畑の顔写真がどうしても必要だった。そのために、
「佐藤部長たちは小山部長たちと合流して、江畑の顔写真の入手を手伝ってくれ」
 と市役所の捜査を終えた佐藤たちに並木は全員で江畑の写真を入手するように下命した。

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