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第2章「1枚のメモ」-3

 週明けの3月18日の月曜。川口中央警察署は慌ただしい朝を迎えていた。1階のロビーには免許更新に訪れた多くの来訪者が順番待ちをする一方で、長椅子には昨夜の事件関係者が腰掛けていた。その人混みを縫うように会議室へ到着した浅見は、
「24時間勤務の交替間際に変死だっていうんだから、ここの警察署の当直だけはやりたくないな」
 と言った。既に出勤していた佐藤たちは黙って頷いているとそこに並木が戻って来ると、
「詳しい経緯は分からないが、朝方にあった変死に我々も現場臨場するようにとの指示があった」
 と指示を伝えた。並木は本部刑事当直から川口中央警察署の刑事課長の指揮下に入るよう指示を受け、その指示内容を確認するため刑事課長のところへ行っていた。
「何でなんですか?」
「それはどういう事なんですか?」
 特命係の誰もが驚きという名の不満を口にした。だが並木は両手を広げて待て待てというジェスチャーをしながら、
「ちょっと最後まで話を聞いてくれ。だが結局当直と刑事課で処理することになったので、我々は行く必要がなくなった」
 と炎上しかけた負の感情をすぐに収拾した。基本的に本部の捜査員が警察署の現場に臨場することはない。したがって不満を口にするのも当然だが、現場によっては捜査第一課として初動捜査の支援を求められることもあれば、増援の捜査員として捜査に当たることがあるのも事実だった。並木はそれを踏まえた上で、
「何かあればすぐに呼んでくださいとは伝えてきた。したがってその時は快く協力してやってくれ」
 と言うと𠮷良が、
「それは自殺と判断したので現場臨場の必要がなくなったということなのでしょうか?」
 と質問した。並木は𠮷良の顔を見ると何も言わず黙って頷いた。そのやり取りを見ていた佐藤はふらりと会議室を抜け出したかと思うと、30分くらいすると再び飯場に戻って来た。すると自分の顔の広さを自慢するかのように刑事課で収集してきた変死事件の概要をみんなに聞かせた。
 佐藤の話によれば男性ひとりが自分の車の中で練炭自殺をしたというもので、車は完全施錠され車内からは練炭を購入した時のレシートも発見された。また身元も判明したが解明点としては前日まで仕事で海外にいたことだった。
 解明点とは不可解な点や疑問点などを意味し、「事件性がない」と判断するために明らかにしなければならない事項をいう。つまり海外から帰国した日に自殺をしている点が不自然だということだった。
 変死事案では遺体の状況を確認するだけでなく、死者の行動確認や金銭トラブルなどを含めて総合的に事件性を判断する必要がある。この男性の場合は昨日、携帯電話が繫がらないことから家族が行方不明の届出をしたが、家族は自殺する理由もなければ、現場も自宅から離れた場所なので納得していなかった。
 自殺した場所は川口市内にある青木公園という野球グランドなどもある市民公園の駐車場で、車が50程度駐車できる広さだった。その駐車場の出入り口から一番離れた奥の場所で車を前方に向けた状態で停めていた。事件性の判断は警察で行うが家族を納得させる説明が求められ、突発的な自殺もあれば、家族が知らない悩みを抱えている場合もあり家族が納得できない現場は多数存在する。
 佐藤は刑事課で聞き込んだ話を終えると、
「確かに全く土地勘のない場所での自殺は不自然だけど、それにしても検視は細かいことまで本当、いろいろと宿題を出すよな」
 と署員の負担を労った。検視室から指示された解明点を「宿題」と呼ぶが、警察署では宿題をすべて明らかにして報告しなければならない。佐藤が皮肉った理由は事件性がないと思うような変死事案でも検視室が解明点は解明点として指示してくるからだった。今回の自殺でも現場の鑑識活動で「第三者が介在した可能性はほぼない」と判断したが、家族の主張する「動機」が判然としないとして宿題が出されていた。確かに「動機」は明らかにする必要はあるがそれは簡単なことではない。そんな大変な労力を要することを躊躇もせずに宿題を出されたことに佐藤は同情していた。
「レシートがあるならその店の防カメを確認して、それで終わりでいいんじゃないかと思いますけど」
 菅谷が誰にいうわけでもなく署員の気持ちを代弁した。菅谷も検視室の指示を否定はしないが、無理難題とも思える解明点を出すことに意味があるのかと疑問を感じている1人だった。
「菅谷部長の検視にいじめられた口ですね」
 佐藤は菅谷の不満を汲み取るような言い方をしたが、変死現場に臨場経験のある刑事であれば必要性は理解しても一度や二度は不満を感じた経験がある。したがって検視室の宿題を大半の刑事は快く思っていなかったが並木は2人の話に一石を投じるかのように、
「自殺の動機がないのに『事件性なし』という判断はできないんじゃないか?」
 と指摘した。すると佐藤は首を左右に振りながら夫婦の実情を諭すかのように、
「補佐。夫婦なんて分かっているようで、分かってないもんなんですよ。奥さんは旦那のすべてを知っているように言いますけど、結構気が付いていなかったりするもんですよ」
 と真っ向から反論した。それに対して並木は黙って頷き、それ以上何も言わなかった。
 そしてその日の夕方になると練炭自殺の詳細が明らかになった。
 香港から帰国した死者である金田英二(65歳)は成田空港近くの駐車場から自分の車に乗って、新空港自動車道を通って東関東自動車道を経由して青木公園に来た。空港近くの駐車場の防犯カメラも自動車道に設置された防犯カメラも本人ひとりで車を運転している映像が確認できた。したがって第三者が介在していないことが明らかとなったが、検視室は防犯カメラの映像について最後まで、
「マスクをしていない、本人だとはっきりと顔が確認できる映像はないのか?」
 と拘った。金田は眼鏡をかけていたため、マスクをすると識別率は極端に低くなった。検視室が望む映像は最後まで見つからなかったが、自殺する前に酒を買いに立ち寄った酒屋の主人に捜査員が金田の写真を見せたところ、「この人で間違いありません」
 と証言したことで検視室は納得した。証言というのは捜査員にとって都合の良い証言ほどすべての問題を解決してしまうことがある。今回の件でも青木公園を選んだのは過去に勤務していた職場の近くで土地勘があったということになり、自殺の動機も自営の旅行会社が自転車操業で再建できない状態になっていたということでまとまった。
 また行方不明の届出を出すに至った携帯電話は車内から発見されたが、バッテリー切れの状態だったことから連絡が付かなかったと判断された。
 屋外変死は屋内変死以上に慎重な捜査が求められ細部に亘って捜査している。捜査員の誰ひとりとして手抜き捜査をしたりはしないが、一度傾いた結論が再び覆ることもない。
「でも携帯電話の電池って、そんなに簡単になくなるものなのか?」
 佐藤の話を聞いていた並木が質問した。そして空港内に充電施設が完備されている時代、飛行機の搭乗時間を差し引いても電源がなくなることはないのではないかと主張した。
「自殺を考えている人間が充電なんて考えないと思いますけど……」
「私もそう思いますね」
 浅見が並木の話を否定すると佐藤がそれを後押し、そしてその場にいた小山たちも頷いた。並木はこの練炭自殺を通じて一度できた流れと先入観の恐ろしさを改めて痛感した。

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