ラスアス2のアレの話

どうもやぶです。
今日はいま話題のラスアス2の話です。
基本的にネタバレは無しで話すつもりだけど、気になる人はALT+[←]でお願いしたい。

さて。

要は今回の一連の騒動?は、ラスアス2のストーリーのような、一部の人には不快な話を、わざわざゲームでつくるのか、そして、そういうストーリー要素を発売前に隠して発売するやりかたが正しいのか、という問題な気がする。

例えば最近の映画であれば、ミッドサマーには少なからず、人によってはかなり不快な描写がある。それでも観客は前評判とかから、ある程度の覚悟と期待をして観にいくものだと思う。だから、観客にはある程度の驚きをもっと受け止められはしても、それ程、作品自体の評価は低くならない。むしろ評価は高いくらいだ。つまり、その作品世界で描かれている「表現の不快さ」は、作品の評価に繋がってないように見受けられる。

それがゲームの話ということになると、ちと話は変わってくるのは何故だろうか。と、一連のラスアス2のメタスコアとか評論を読んで思ったのだ。

一昔前の鬱エロゲとかだと、ちょくちょく見掛けた気がするようなアレ。
巨大な製品パッケージ見る分には、かわいい絵柄で平和なハーレムゲームぽいのに、いざプレイすると鬼畜主人公であり、どろどろスプラッタな内容だったりするアレ。でも、何故かエロゲーの場合は、「だまされた」と憤慨する人は、案外少なかった気がする。
それは多分、「だまされた方向」が、不快じゃなかったからなんだろうな。たぶん。

それが今回のラスアス2の場合。

ポリコレ臭全開のコンテンツに接した人がよくとる反応のひとつの、

「べつに嫌いじゃないけど、まるでその手のことに興味はないので、金と時間を使ってまで、その手の作品を進んで観たいとも思わない」

という感じの人への対応を、甘くみてたのかな、という気がする。

そういったいわば「不快要素」(念の為。便宜上ここではこういう言葉を選んだけど、ポリコレ要素すべてが不快と思ってるわけではないことを主張しておく。ほんと念の為)を、ろくにエンタメの味付けもせずに、回避不可な状態で盛りだくさんに詰め込んで並べられたから、強い拒否反応を取られたようにみえる。

勿論、ここでいう「不快要素」ってのは、ストーリーライン上での主人公の危機や、ヒロインを襲う悲劇とかについて言ってるわけじゃない。個人の領域の嗜好や性癖からくる、不快感を刺激する可能性のある描写。或いは、必要以上に共感を煽る描写をされていたキャラクターが、残酷な退場をさせられた上で、ストーリーの都合のみでその加害者が厚遇された形にて物語に扱われたりした場合の、なんとも承服しがたい理不尽感とかだ。

視覚的な映像を見るだけのメディアである映画やドラマと比べると、ゲームはコントローラーを手に持ってキャラクターを操作する分だけ、「追体験」により近いメディアだ。

それが原因で、興味も無いしエンタメとして面白くもない体験が、「スルーできないコンテンツ」として大きく横たわってしまうのが、ただの映像作品と比べて、比率の大きい問題となる。
ゲームの場合は、家で観る映画と違って、興味の無いシーンではスマホをこすって、カラムーチョを口に流し込んでいれば話が進むということはないからだ。
ムービーを鑑賞し続けるだけの場合なら、まだマシ。
もし操作が必要なシーンであるならば、嫌な内容であってプレイを続けないと、作品の続きはプレイできない。

映画なら良かった。なんの問題もなかったろう。
ただ、小説とかでも古来からよくある手法だが、たとえば、一人称視点のキャラクターを、主人公と敵対するキャラクターに変えてサブプロットを展開するような、まるでブレイク・スナイダーぽい脚本の手法などは、そのまま馬鹿正直にゲームに持ち込むと、敵方を操作することになり、プレイを続ける必然性を消耗させる。プレイヤーはストーリーを楽しむためにプレイしているわけなので、ストーリーのご都合に合わせた狂言回し役がしたいわけではない。小説を読むのとはわけが違うのだ。

造り手の都合で、そういった不快要素をどうしても入れたい場合は、自動的に再生が続く映画などよりも遥かに配慮が必要であり、ゲームシステム的な楽しさや、エンタメ要素を念入りにまぶした上でコンテンツとして盛り込まないと「遊び続けてもらえない」という問題が出てきてしまうわけだ。無理につまらないゲームを続ける必要は無いわけで、かの里見の謎のように画面の上に向かって歩き続ける必要も無い。

ゲームであるからには、モチベーションのマネージメントが欠かせない。

そういったプレイヤーに対する配慮も特にないのに、それ以外の箇所はエンタメ要素たっぷりで、エモい回想シーンに、アクションも演出過剰で全体的に高品質だったりすると、尚の事、そういう「退屈なパート」が妙に悪目立ちする。これは作り手にとっても、プレイヤーにとってもかなり不幸だ。

映画やゲームに限らず、作品として世に出るものはすべて、作り手の所有物で間違いない。著作権だって、日本では人に譲渡できないし。だから自分の思うように作って良いこと自体は、まったく間違っていない。ラスアス2も労使問題を叩かれつつも、きっと作り手の思いのままに作られたに違いない。素晴らしい出来だ。

ただ、それらのコンテンツを、ゲームのようなインタラクティブなメディアで、且つ有料で外に送り出そうという場合は、それなりの配慮がないと、こういう「不幸な出会い」が生まれてしまうのだろうなあ、と思うことしきりだ。

どちらかが絶対な誤りで、どちらかが絶対的な正解など無い話をしているので、この話の結論なんてものは無い。ラスアス2の品質自体は素晴らしいものなのは疑うべくもない。

ただ、あらゆるコンテンツがそうであるように、ゲームをプレイした人がその体験を良い体験だったか、或るいは悪い体験だったかと感じるかは、その人次第であり、ゲーム自体の品質とはまた別の話だ。

米Wiredに、監督のDruckmanと脚本家のGrossへのインタビューが掲載されている。

Druckmann notes. But he believes developers like him must learn to tolerate more discomfort: “I'd rather have people passionately hate it than just be like, ‘Yeah, it was OK.’ ”

このインタビューでも、「これが平気だと思われるくらいなら、熱狂的に嫌ってもらいたい。」と言っているし、ユーザを打ちのめす気まんまんで作っているのだから、今回の反応は大成功というところだろう。

ただ、テレビと映画の脚本家を招いて、脚本家御本人の崇高な思想とか面倒臭いものを表現するための道具として提供するのであれば、ラスアスのようなシリーズもののトリプルAゲームではなく、別IPで、ゲーム特有の脚本の書き方を理解した上で関わってもらった方が良かったのではないか、という気がしてならない。


俺はねぇ、饅頭が怖いんだ!俺は本当はねぇ、情けねぇ人間なんだ。みなが好きな饅頭が恐くて、見ただけで心の臓が震えだすんだよ──── ごめんごめん、いま饅頭が喉につっけぇて苦しいんだ。本当は、俺は「一盃のサポート」が怖えぇんだ。