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これぞ達人の技 『時雨の記』『おもちゃ』1999.02.10     矢部明洋

  最近、このコーナーを読んだ方々から「辛口だねー」とか「映画に対する愛情が感じられない」といった感想を頂戴する。だからというわけではないが、今回はほめます。

 先日、やっと澤井信一郎監督の『時雨の記』を見た。久方ぶりに日本映画人の立派な仕事ぶりに唸った。渡哲也、吉永小百合という、スターではあるが、型通りの芝居しかできない主役2人を、名シェフ・澤井が手練手管を総動員し、東映という老舗レストランの看板に恥じないメーンディッシュに仕上げたというところ。それほど、脚本も担当した澤井監督の腕の冴えは素晴らしい。
 感服した映画を見た時には、記憶をたどりながらノートをつけて作品の構成を分解してみるのだが、この作品で久しぶりにそれをやった。
(しかし、この手の映画は昔、東宝のお家芸だった。秋になると女性大作と銘打ち、毎年のように栗原小巻あたりを主役に据え作っては失敗していた、という記憶がある。それが何と、あのイケイケドンドンの東映が、製作したうえに、こんな傑作をモノにしたのだから驚いてしまう)
 まず感心させられたのは主役2人の衣装に込められる作り手の意図。逢瀬を重ねる、その時々の衣装の色が両者の距離感を巧く表現するのである。最初のデートでは渡が白っぽいジャケット、吉永は地味目の和服で対照的。続いて一番の見せ場となる大晦日の吉永の自宅での場面では2人とも黒い衣装で、一体感が強調されている。それを踏まえた、ラスト近くの渡が吉永の腕の中で死ぬ場面での両者の衣装の色の対比はお見事。見てのお楽しみにしておこう。
 衣装に、これだけ繊細な配慮が見られるのだから、他も推して知るべし。2人が思いを通わせてゆく舞台は、ほとんど吉永の鎌倉の家に設定されており、作劇上の勝負どころとなる芝居は全部ここを舞台に繰り広げられる。食事や睡眠といった日常のありふれた動きの中で、花器や本、年賀状など見近な小道具を効果的に使い、2人の感情の微妙な動きが視覚化されてゆく。この辺りの演出は、まさに達人の技である。
 また澤井演出は主役たちによく飯を食わせるし、何を食っているかもはっきり描写する。とかく恋愛ものの主人公というのは、「かすみでも食ってんじゃないか」と思えるほど浮世離れしたキャラクターが横行しているが、この作品は主人公たちが、どんな家に住み、どんな仕事をして、どんな物を食っているか、をきっちりと描いている。おかげで観客は登場人物にリアリティーを感じ、感情移入することができる。さすがは『トラック野郎』の脚本を担当した時、主人公・一番星桃次郎の経歴を大学ノート一冊分書き込んだという伝説がある澤井監督。設定をおろそかにしない。これがプロの作り手としてのマナーだろう。
 澤井演出の甲斐あって、テレビCMみたいな渡の芝居すら好感を持って見ることができる(アクションスターだけに発作で倒れるシーンは上手い)。個人的に吉永はあまり好きではなかったが、今回ばかりは『キューポラのある街』級に彼女の演技に感情移入できた。
 その他、渡の死の叙述には黒澤明の『生きる』の手法が使われているなど、まだまだ感心した点があるが、きりがない。もう一度きっちり見直せば、まだまだ発見がありそうな、スルメのような作品である。

 追記
併映作品『おもちゃ』は昭和33年ごろの話だと、冒頭紹介されるが、あの頃の京都の街は、あんなに道路が舗装されていないはずだ。一事が万時で、これ以上は書きません。富司純子は良かったです。

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