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アキラ・クロサワ、御殿場秘話 追悼・黒澤明 1998.09.30 矢部明洋

  「『椿三十郎』の最後の決闘シーンは、ここで撮影したんですよ」
 静岡県御殿場市に住む老人に案内された場所は、すっかりアスファルトで固められた舗装道路の四辻だった。風吹きすさぶ荒野の面影は、どこにもなかった。
 『七人の侍』『蜘蛛巣城』『影武者』『夢』。冬の晴れた一日、老人は次々とクロサワ映画の撮影現場となった富士山麓の思い出の地へと案内してくれた。
 もう6~7年前のことである。
 老人の名は長田孫作。黒澤組スタッフとしてスクリーンにその名が出るようになったのは『影武者』以降のことだが、黒澤明とは助監督時代からの付き合いになる。昭和20~30年代の日本映画黄金時代、広大な自然が残る御殿場には各社のロケ隊が日参し、戦国合戦絵巻や日中戦争のアクションシーンを撮影していた。孫作老人は、ロケ地探しや付近の農村からのエキストラ集めまでを一手に引き受け、そのうち、本職の農業より映画の仕事の方が忙しくなってしまったという人だ。
 老人に対する黒澤明の信頼は厚い。新作の脚本が出来あがると、すぐ老人の元に送り届けられる。その後、電話で助監督から、御殿場で監督が撮りたいと言っているシーンが伝えられる。老人は脚本を何度も何度も熟読し、イメージを固め、思い当たる場所に足を運ぶ。納得がいくと黒澤プロに「ロケ地が見つかった」と返事をする。待ちかねたように黒澤が御殿場にやって来て検分する。と、まあ、こんな具合のキャッチボールが巨匠との間でずっと続けられてきたのである。
 私が「クロサワ作品の現場の話を聞かせて欲しい」とお願いした当時、老人の手元には表紙に『せんせい』と印刷された脚本があった。最後のクロサワ映画となった『まあだだよ』である。黒澤明が新作を準備中という話はまだ公表されていない頃のことだ。老人は、この作品で御殿場ロケが予定されている場所へも案内してくれた。それは私には何と言うこともない畑と雑木林に思えた。
 ところがである、後に映画が封切られた時、私はスクリーンでこの見覚えのある風景に再開し、驚いた。ありふれた風景が一幅の絵画となってフィルムに焼き付けられていた。元を知っているだけに、そのシーンの美しさが余計に心に沁み、涙ぐみさえした。その時、『影武者』以降のクロサワ映画に対して漠然と抱いていた考えが焦点を結んだような気がした。つまり、いろいろ批判も多い晩年の5本、黒澤明は物語を演出していたのではなく、スクリーンに絵を描いていたのである。青年時代、画家を志していた老芸術家は白鳥の歌を歌っていたように私には思えた。老人と現場を歩いたお陰で、そんな発見もさせてもらえた。
 老人は日本映画史を彩るたいていの巨匠と仕事をしてきたが、黒澤明との仕事を一番気に入っていた。どの監督との仕事でも十分脚本を読み込んで最適と自信を持った場所をロケ地として推薦するのだが、黒澤明は毎回、自分のイメージをはるかに超える映像を作って見せてくれた。
 70歳を超えようと黒澤の仕事への情熱は若い頃と変わらなかったという。丁度この頃、対称的な現場に出くわした。名匠・今井正が『戦争と青春』という作品のロケで御殿場にやって来たのである。老人は今井監督と組むのが久しぶりだったため、懐かしさからロケの間中、老匠の側を離れず仕事をした。だが、「かつての今井監督なら、もっと粘ったのに」と感じられる場面を何度も見た。自らも70代を迎え、老いることの寂しさのようなものを感じたという。それだけに黒澤明との仕事は残りわずかな人生の中で、かけがえのない燃焼の時だったのかもしれない。
 70歳を超え大病を患った時、病院に見舞いに訪れた黒澤は「孫さん、百歳まで一緒に映画を撮ろうよ」と励ました。しかし、老人は黒澤が逝く数年前、世を去った。そして黒澤も、ずっと「カンバス」を用意してくれていた老人を失って以降、ついに「絵筆」を執る事はなかった。

▼おまけ クロサワ作品ベスト5

  • 1)生きものの記録~

    • 黒澤明のエネルギーの源は、この作品で示されたような、生物として
      の強靭な皮膚感覚に在るような気がする

  • 2)生きる~

    • 『白痴』より本作の方がドストエフスキー趣味全開で圧倒される

  • 3)用心棒~悪魔的なまでに面白い

  • 4)野良犬~演出家としての野心がギラギラ

  • 5)八月の狂詩曲~

    • 20世紀を代表する芸術家の晩年のピュアな心象風景にリアルタイム
      で接することができた幸福に感謝して

  • 別格・七人の侍

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