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けなせない映画 『愛を乞うひと』 1998.11.24  期待作ハズレる 『犬、走る』『カンゾー先生』 1998.11.24 矢部明洋

けなせない映画 『愛を乞うひと』 1998.11.24

 

 妙に悪口が聞こえてこない映画だ。かといって諸手をあげての絶賛もない。過去の例からして、この手の反応はベストワンへの予兆だ。熱狂的な支持は少ないが幅広く票を集めてしまうというパターン。『午後の遺言状』がそうだった。高齢者問題という批判しにくいテーマだったた事もあり、映画評論家たちの腰が引けた結果のベストワンだったと私は思っている。面白くなかったし。『午後の遺言状』よりは面白かったが、『愛を乞うひと』も同じ事になりそうだ。

 今回、映画評論家たちの腰を引かせているのは児童虐待というテーマである。重い題材だし、論評するには少々勉強も必要だ。個人的には、こうした題材を取り上げる映画がもっと増えてもいいと思う。しかしながら、この作品は取り組み方が少々、中途半端で残念だ。

 まず、原田美枝子の母親が娘にしつように暴力をふるう原因、理由が説明されない。ものの本によれば、虐待者のかなりの割合が被虐待者であったという。原田母は劇中、レイプも受けるし、虐待を受けて育ったような風なほのめかしもあるが、その程度だ。ドラマの結節点ともいうべきポジションに居る原田母の背景が見えないため、この映画で描かれる人間関係には、暴力シーンを除けば、観客をドラマに引き込む緊迫感が生じ難くなってしまったのである。

 劇中の原田母像は常に他者の視線で描かれる。原田娘、中井貴一の父、熊谷真美夫婦ら彼らを通した描写ばかりであり、原田母の主観描写がほとんどない。したがって彼女は劇中を通じて謎の人物に終始する。クライマックスの床屋の場面で、その謎が解明されるならいいが、それはない。したがって、ドラマの構造上の大きな欠陥にすらなっている。  床屋場面を、ああするなら、原田母の描写はもっと彼女の心情に踏み込み、生い立ちの説明もしてほしい。それがないため、このドラマは主要キャラクターの間で火花が飛ばない。おかげで、暴力シーンだけが突出するずるい作品になってしまったというわけだ。  我々の社会は、子供は親の所有物だと考えがちだった。親にしかられ、たたかれる子供を目にしても、「きっと子供の方も悪いに違いない」と思いがちだった。これは子供だけに限らず弱者一般に対する、私たちの社会の本音でもある。曰く「やられる奴が悪い」。この映画が描く母娘像は、そんな本音の醜さを教えてくれる。子供を傷つけ、犯しさえする悪魔的な存在にも簡単になりうるのが親の一面であることを、観客に気づかせ得たなら、中途半端なドラマではあるが、この作品が作られた意義はある。

 

期待作ハズレる 『犬、走る』『カンゾー先生』 1998.11.24

  『犬、走る』の話の骨は『悪名』『傷だらけの天使』『スティング』であり、これら名のある作品が勝新と田宮二郎、ショーケンと水谷豊、ポール・ニューマンとレッドフォードら、いい役者を得て成功したのと逆に、『犬』は役者で失敗してしまったといえそうだ。要するに大杉漣が良くなかった。

 監督が台詞に頼らず画で見せよう語ろうという志向だけに、よくない役者は目立つ。助演の香川照之がいきいきしていただけに、大杉と入れ替えた方が良かったんじゃない。背景の新宿現代風俗も生きていただけに大杉さえ良ければ、と残念だ。

 『カンゾー先生』も、あの粘着質の今村昌平が、こんな気楽な映画を撮るのかと暗然とさせる。歳のせいか。まるで黒澤明の『まあだだよ』である。それでも黒澤は、油絵を塗り込むように映像は作るので見る所はあったが、今平は生々しさが勝負の人。枯れてしまってはおしまいだ。『うなぎ』は、劇中登場するウナギが、今平が失ったぬらぬら感を補い、カンヌのグランプリに輝いたわけか。それにしても『カンゾー先生』はさむい。黒澤の枯れは大目にも見れるが、今平のアッサリは許せない気がするファンは多いのではないか。

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