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活劇は匂いにシビレろ! 『ジャッカル』と『緋牡丹博徒・お竜参上』1998.07.15 矢部明洋

 優れた活劇には、観客をシビレさせる匂いがある。
 ブルース・ウィルスとリチャード・ギアが競演した大作『ジャッカル』は健闘はしたが 、直後に図書館で往年の東映プログラム・ピクチャー『緋牡丹博徒・お竜参上』を見たせ いで、その健闘ぶりも私の中から雲散霧消してしまった。両作の差は、活劇ファンを虜に する、フェロモンにも似た匂いの有無に尽きる。
 30年近い時を隔てて作られた2つの娯楽映画を見て、そんな事を考えたのは、この両作 が似ているからだ。つまり、どちらも企画、ストーリー共に新味がない。『ジャッカル』 は主人公がいかに要人暗殺に成功あるいは失敗するかだし、『緋牡丹博徒』も任侠ものの 黄金パターンである勧善懲悪劇。観客には見る前から筋が概ね予想できる。したがって、 類型的といっていい登場人物群をどう個性的に味付けするか、お決まりのストーリーをど う描写するかに作品の成否はかかっていた。
 1970年製作の『緋牡丹博徒』が今も観客をシビレさせるのは、監督の加藤泰が己の美学を全面展開して勝負しているからに他ならない。冒頭から、ケレン味あふれるカット割りと構図が連続し、画面から緊張感の絶えることがない。ワイド画面の隅っこに小さく映ってる人物までが、この作品では芝居をしており、スクリーンの隅々から監督の美意識がぷんぷん匂ってくる。演出家ごとの、この臭みを嗅ぎ分けることこそファンの楽しみであり、映画に酔っぱらってしまう秘密だ。
 多用される長回しの効果も大きい。筋の展開上、説明的にならざるを得ない脚本の弱点 部分で採用しているのは、弱点こそ芝居の勝負所、という監督の英断に違いない。
 今時のファンに分かりやすく例えるなら、ケレンあふれる構図、カット割りなどはウォ ン・カーウァイら香港作家のルーツではないかと想像され、観客に挑むような長回しはま るでアンゲロプロスだ。ただ、ストーリーだけが凡庸な勧善懲悪劇なのである。
 『ジャッカル』も、お決まりの筋立てだが、製作サイドは、それをブルース・ウィルス の百面相や、暗殺道具のハイテク化で乗り切ろうとした。娯楽大作らしく、いい役者を集 め、がっちりした脚本も用意したのだが、加藤泰のような美学がスクリーンから匂わない 。つまり、『緋牡丹博徒』の藤純子や菅原文太はフェロモンがぷんぷんでシビレるほどカ ッコイイのに、『ジャッカル』は2大男優のカッコイイが足りないのである。これは俳優 のせいじゃなく、演出家の責任。特にリチャード・ギアは気の毒だった。
 大スターといわれる連中は、誰が演出しても匂ったものだ。ブルース・リーや裕次郎、 ジミー・ディーン、マーロン・ブランド。その域までいってない俳優を使う時は、演出家 が匂いをふってやらないとシビレる活劇は成立しない。『ニキータ』『レオン』もリュッ ク・ベッソンの匂いの作り方が巧かったし、黒沢明の『用心棒』など、冒頭に登場する切 断された人の手首をくわえて通る野良犬からして黒沢のフェロモンがぷんぷんだった。
 日本活劇界で、今いい匂いを出しているのは石井隆監督。ただ、匂いだけに走ると、ウ ォン・カーウァイのようにMTVみたいな映画になってしまう。まっ、好みの問題もある のだが、活劇はスクリーンに立ち込める匂いが大きな見どころだ。

 

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