きんぴら大根に秋のなみだ

冷気を逃がさないためじゃなくて暖気を閉じ込めるためにドアを確認したとき、秋の香りがした。金木犀の甘いにおいじゃなくて、秋雨前線のじっとりしたにおいじゃなくて、自分だけが気がつく秋の香り。ああ、秋だ。だれにも伝わらない香りを噛みしめて、木枯らし色のブーツに足を入れた。

第六感、っていうのは結構あなどれないものだと思う。幽霊とかスピリチュアルとか占いとかそういうのじゃなくて、自分の勘のほう。今日はうまくいきそうだな。このお店よさそう。こっちの道から行ってみよう。こういう良い勘は「やっぱりそうでもなかったかも」ってなることが多いけれど、たまに大当たりを引くからやめられない。だけど、わたしの悪い勘は、天気予報くらいには当たってしまう。さつまいもとだいこんと玉ねぎが、安売りで冷たい風を浴びている。良くない扱いの上に安売りされるなんて。続きの言葉を飲み込んで、そんなに安くないさつまいもとだいこんを手に取った。大音量なのにうっすらと乾いた音楽。赤いカゴに重たい子たちを乗せ込んで、のんびりスーパーを巡回する。今日は秋の香り記念日だから、秋刀魚を食べると決めた。今決めた。きょう、さんまなの?やった、お腹すいたなぁ。やさしい笑顔と、花屋の水仕事で荒れた骨骨しい彼の手。いつのまにかわたしの部屋に住み着いている、聡くん。彼は高い化粧水を躊躇なくたっぷり塗るし、夜中でもギターを弾くし、いつでも甘いにおいがする。秋刀魚は安くも高くもない。二尾入りのパック。聡くんがもらってきたカボスと秋刀魚で、わたしはそれとなく秋だけを受け入れることにする。

聡くんに好きな子ができたのを、わたしはたぶん聡くんより先に気がついたと思う。季節の移り変わりのように香りで感じた、と言いたいところだけれど、もちろんただの悪い勘だ。キスしたときの舌先の思考。抱きしめたときの花の甘い匂い。いってらっしゃい、と微笑んだ頬の艶。聡くんは出ていくんだろうか。出て行って、どうするんだろうか。きれいに並べたスリッパを横目に、炊飯器のスイッチをめいっぱい押す。陽はとろけて、世界はすっかり夜の入口に立っている。

だいこん一本、迷いなく買ってきちゃったなあ。ででん、とまな板を占領するだいこんを、ひとまず半分に切り落とす。下半分はラップにくるんで冷蔵庫に眠らせる。ごはんが炊ける頃に、聡くんは帰ってくる。そんなに手の込んだものは作れない。炊き込みご飯、には遅すぎた。皮をむきながら、やっぱりむかなきゃよかったと反省する。反省するけど、だいこんはもうきれいな真っ白になってしまった。ぼさぼさの葉っぱに固めの身。どんな花にも名前はあるし、どんな野菜にも花はあるよ。いとおしそうに花を見る聡くんの、横顔。だいこんにはどんな花がつくのだろうか。あ、そうだ。きんぴらにしよう。無心で桂むきを、する。厚さを意識するよりも、だいこんを包丁の上で滑らせるようにむくのだ。桂切り、じゃなくて、桂むきだから。薄いとも失敗とも言えないだいこんの桂むきを、今度は、細長く切っていく。だいこんからどばどばと水分が出てくる。安くないだけあって瑞々しいのかもしれないし、単に包丁が切れないのかもしれない。そういえば、聡くんがうちに住み着いてから一度も包丁を研いでいなかった。すこし深めの片手鍋に、多すぎるくらいごま油をまわす。切っただいこんを全部入れて、ごま油とよくなじませる。香りが立ってきて、むわむわと幸せが立ち込める。料理って、こうじゃなくちゃ。砂糖をスプーン一杯ぶん入れて、だいこんから水を離す。そうするとだんだん水が鍋に、溜まる。こんなに?ってくらい溜まり始める。それと反比例してだいこんは萎んで、小さくなって、水分は抜けていく。しばらくして菜箸でつまむと、ほろほろとだいこんじゃないみたいな離れ方をするようになったら、水とだいこんはお別れ。鍋をガスから外して、だいこんのものだった水分を捨てる。白だしをひと回し。塩をひとつまみ。甘みはじゅうぶんだから、みりんはいらない。代わりに料理酒をいれて、醤油で色付けする。みゆきちゃん、お酒苦手なのにだいじょうぶなの?きっと、あの日の聡くんは本気で心配していた。大丈夫じゃないから火にかけてるんだよ。今のわたしならこう答えるけれど、あの日のわたしは、なんて答えたんだったろうか。チチチチ。もう一度ガスにかけて、弱火で煮詰める。くたくたの葉は、米粒と同じくらいを意識してみじん切り。葉に塩を回して電子レンジで、チン。きんぴらのあまじょっぱさと葉のほろ苦さの相性は、きっと秋刀魚にも合う。桂むきで疲れてしまったから、さつまいもは明日にしよう。いいにおいがしてきて、ぴろぴろりーと炊飯器が鳴った。そろそろ、聡くんも帰ってくる。秋刀魚を軽く洗って水気を取ったら、魚用グリルで、焼く。煮ているきんぴらの火を止めて、一本だけ口に含む。すこし甘すぎる、かな。醤油を気持ち追加して、和える。七味唐辛子をふた振り。だいこんの葉もキッチンペーパーでよく拭いて、炊飯器の中に入れる。だいこんのきんぴらも、三分の一くらい、入れる。切るように混ぜて、混ざったらあまり触らないでおく。秋刀魚をひっくり返すと、ぷつぷつと油が跳ねて、焼き色がついて、眼福ですらある。こんなに料理できるなんて、すごいね。いいお嫁さんになるよね。そういえば聡くん私に一度も「好き」と言ってくれなかった。わたしは聡くんに、何回言ったのだろうか。「好き」の数と、愛情も、反比例だったらよかったのに。

聡くん、好きでした。呟いても、その言葉は誰にも届かず、換気扇に吸い込まれていく。明日晴れたら、スイートポテトを山ほど作ろう。昨日の天気予報で、明日は晴れだ。

お読みいただきありがとうございます。あなたの指先一本、一度のスキで救われています。