原因不明
「…初めての人、ですか。警察官って言ってました、良い人そうな人でした。お父さんと同じくらいの人。娘さんがいるらしくて、家族を大事にしてそうな感じ。」
彼女は小さな声でそう言うと、僅かに私から目を離した。だけどそれは一瞬で、すぐに私を見て微笑む。十七歳とは思えないほど自然で、大人で、洗練された作り笑顔だ。何も書いていないメモとボールペンをテーブルに置いて、彼女を見る。
「それは、嫌だった?」
私はあくまで世間話をするように、彼女が友達と話しているような感覚になるように、軽い口当たりで聞いた。彼女は演技臭く首を傾げる。
「わかんないです、小学校…何年生の時かとかもあんまり覚えてないし。」
「本当に?嫌われたくないから、とか思わなかった?」
彼女がぐっと唇を噛んだのが見えた。私はゆっくりと、続ける。
「あのね、私は朱里(しゅり)ちゃんがしてることを責めたい訳じゃないんだよ。ただ、朱里ちゃんが傷ついてて、それを埋めるためにそういうことを--セックスをしてるなら、それは間違って」
「わかんないですよ、そんなの。自分が傷ついてるかなんて、分かんない。」
固く閉じた唇から言葉を吐き出して、大きくため息をついた。まるで私にもう帰ってください、とでも言いたそうに。私は無視して続ける。
「じゃ、そうやって生きていくの?これからも?」
「はい。若いうちは、っていうか、こんなの付き合いたい人とか居ないでしょ。」
こんなの。口の中で反芻すると、彼女の瞼が光った。同性には分かる程度の化粧に、ふわっとしたミディアムヘア、短いスカートの中で落ち着かない様子で何度も足を組み直している。綺麗な子ではない。けれど、顔全体のバランスが整っている。
「そんなことないよ。私でも結婚出来たんだから。」
「ってか大体、私悪いことしてないですよね。お金貰ったりしてないし、迷惑掛けないじゃないですか。」
彼女は整った顔を歪めて、打って変わったように私を睨んでいる。私は笑顔のまま、先程の彼女のように首を傾げる。
「でも、私のところに来たよね。それって、困ってるってことじゃないの?」
「別に、もっとマシなこと聞けると思っただけです。」
彼女が立ち上がろうとしたのを片手で制して、ごめんなさい、と頭を下げる。いつの間にか傷のついていたテーブル。テーブルに浮かぶ薄い線。
「〜っ、頭下げないでください。なんかもう、調子狂うんですけど。」
はあ。今度はわざとでなく、心からであろう大きいため息をついて、あげた腰を戻した。
「迷惑掛けてないけど、もう話聞いちゃったからね。私も娘いるし、他人事としては聞けないよ。」
私は彼女が座ったことを確認して顔を上げ、肩を竦めた。私が自宅でカウンセリングを再開したのは、“こういう子”を救う、いや、引っ張り出したいからだ。
十七歳、女子高生、早すぎる初体験、ヒス気味の母親、愛人を隠さない父親、家に帰らない娘。DVや隠れ貧困、自傷、精神疾患、これらがよくも悪くも明るみになっている今、表面に見えない傷にまで向き合うことができなくなっている。当然だ。DVも防げていないのに、ただ遊び歩いているだけの子までリカバリーしていたら、リカバリーの必要がない子の方が少なくなってしまうだろう。
だけれどそれは、リカバリーをしない理由にはならない。私は、見えない彼女たちをそこから引っ張り出して、幸せに持ち上げて上げたいのだ。
「私、幸せですよ。」
傷の付いたテーブルの上で、彼女が白い手を握った。薄いピンクのネイルがぷっくりと膨らんでいる。続きを促して、湯気の溜まったティーカップに指をかける。薄白く細い指には、もう、皺が寄っている。
「帰る家あるし、お母さんだって心配してこういうところ連れてきてくれてるし。私が悪いんですよ。幸せなのに、男の人と遊んだりしてるから。」
それは違う、と言いかけて、やめた。悪くないよ、とも言えなかった。彼女にはいわゆる人格形成においての問題はない。表面的にはそうされるだろう。母親のヒスも自覚があり、更年期障害の延長線上のようなものだ。だけど、だから、とはいえない。
「ねえ、朱里ちゃんはセックスし続けたいの?」
しん。朱里ちゃんは、真っ直ぐに私を見た。
「分からない、でも、…求められたい。」
「…そっか。」
ふう、と言って、持ち上げただけだったティーカップを置いた。口は付けずに。
「ただいまぁ〜。」
場違いな呑気声が沈黙を叩いた。私は慌てて朱里ちゃんに謝りを入れて立ち上がり、ドアを開けた。夫が帰ってきてしまった。やってしまった。いまいちばん刺激したくない、触れさせたくない、近寄らせたくないのに。場所を新しく借りた方がいいのかもしれない。
「おかえりなさい、ちょっと今お客さんきてるから、出てもらえる?」
「ああ、いいよ、どれくらい?」
彼はジャケットを掛けて、嫌そうな雰囲気を微塵も出さずに微笑んだ。私はホッとして、1時間くらいかな、と付け足す。
「あの、わたし、帰ります」
振り向くと、朱里ちゃんが居た。
見たことの無いほど、真っ青な顔だった。
え、と声を上げると、彼女は私の横を通り過ぎ、彼の横を通り過ぎた。朱里ちゃんの背中を追いかけようと彼の横を通ると、朱里ちゃん?と声がした。
悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。悪くない。誰が、悪いの?
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