見出し画像

浜辺のプラスチック

校舎から海が見えるなんて最高だ、と思っていた。放課後には砂浜を裸足で歩いて、授業中には流れ込む潮の匂いを嗅ぐ。海の近くには住んでいるけれど、周りは畑だらけで、結果海に恵まれなかった私は、海が見える校舎、というのが、物凄く尊いものだと思っていたのだった。けれど、実際はどうだろうか。砂浜はカラフルなプラスチックがあるせいで、裸足で歩くなんてもってのほか。授業中に流れ込んでくる潮は、生臭さを乗せていて、窓を開けることはほとんどない。海と言っても東京湾だったわけで、当然の結果と言える。けれど海、というのは、どうしても、どんなものでも、私を魅了した。

そして、彼女は名前を、海未と言った。海に未熟の未で、うみ。そう言うと、彼女は下がった眉毛を更に下げて、八の字を描いた。なんで未知の未、と言わないんだろう。そう思いながら、私は唇に弧を描いた。どうしてかはわからないけれど、うまくやれる、と私は一人で確信したのだった。なんとなく、そういう空気がしていた。漂った空気は海よりも深く、また、波よりも近かった。名前が海未だったからかもしれないし、海未が賢そうだったからかもしれないし、お昼に一人ではなくなることが決まったからかもしれなかった。それは、大まかには合っていた。

海未は、この時代にそぐわない美しさだった。小麦色の肌に、茶色い瞳。困り眉なのに濃い眉と羽のような睫毛が、海未の印象をグッと強くしている。ちょっと焦げちゃいました、みたいな見た目が、私は好きだった。海未が必死になる姿は想像できないような、飄々とした、ちょっと十五、六の小娘には見えないような感じがあった。クラスのみんなはまだどこかお互いを掴み切れていなくて、その上で海未みたいな異質な子に近寄る余裕はなかった。教室の中で海未は、星の中に浮かぶ一つの月のようだった。
そうなると当然、ありふれた自分の見た目が、なんだか物悲しくもなったりした。それでも私はやっぱり海未が好きだった。こんな子と二人で学校生活を送れるなんて、私は運がいい。そう思いながら私は好きなだけ喋った。一つ下の抜けている妹のこと、三姉妹と疑われる母のこと、バーテンダーの父のこと。もしかしたら、私は緊張していたのかもしれないし、やっぱり単におしゃべり好きなだけなのかもしれなかった。ずっと、ずっと喋り続けていた。海未は鬱陶しそうでも興味があるようでもなかった。ただ、突然こちらを挑発するような目した。私はその一瞬だけ、たじろいで声が大きくなる。瞬きをすると海未は眉を下げて、いつもの顔に戻る。私のつ声は少し大きくなったまま、また、喋り続けたのだった。

そうだね、うん、へえ、すごい。海未はそれしか言っていなかった。ちっとも適当じゃない自然な相槌だったから、海未が話していないことに気がつくまで、二週間かかった。気がついて一日目は半信半疑で、海未の言葉に意識を向けてみた。その結果はクロで、私は喋りすぎどころか、海未から何も聞いていない、ということがわかった。葉桜も芽を出し始め、潮臭い風が雪崩れ込む。私はどうにも切なくなって、すん、と鼻を啜った。何も悲しくなることは無いはずで、それなのに無性にもの悲しかった。この子と友達になれる、海が近づく。そんなことを思っていた私が、まるでばかをみたようだったからだ。海未が何度目かわからない「そうだね」を言った後、私はわざとらしく間を開けて、わざとらしく息を吸った。
「海未は、休日何してるの?」
何の気なしに自然に聞いたつもりだったけれど、箸を持つ手が震えていた。箸を握ったまま机の下に手を滑り込ませる。海未はそれを見たのか、眉を下げる笑い方ではなく、眉を広げるような笑い方をした。
「私は、プール。市民プール。」
「市民プールって、青葉市民プール?」
「そう。毎週ね。」
「毎週?!」
海未は私が繰り返したのがおかしかったのか、ころころと笑った。海未の笑い声は、海の煌めきのように、きらきらと輝いて、乱反射している。
「泳いでると、楽しいでしょ。」
「え、全っ然楽しくないけど……?」
私は中学のとき、理由を見つけてはプールを休みまくっていた。なんで溺れに行くのかが分からない、浜辺で遊ぶ方がマシーーーつまり、カナズチなだけだったのだけれど。その私を思い浮かべ、すこし嘲るように、海未はまた、笑った。
「そういう人も、いるよね。」
「いや、こういう人の方が多いよ。」
そうかも、と海未は笑った。別に私の話がつまらなかったわけでも、話すのが面倒だった訳でもなく、菜々子がずっと喋ってるからタイミングが無かっただけ、と海未は眉を上げた。嘘か本当かはいまだに分からないけれど、海未は喋ったほうが魅力的で、だから私はたまに喋るのをわざと止めた。すると海未は二秒くらい私を睨んで、そのあと、小さな唇を動かす。鼻炎だからなのか、海未の声は時々掠れて、そしてゆっくりと喋るものだから、私はうつらうつらした。相槌はたぶん物凄く下手くそだから、私が話を真面目に聞いていないと分かっていて、だから、海未話始める前に私をじっと睨むのだった。内容はぼんやりとしていても、海未の声は録音されているように、ハッキリと再生できる。掠れている、低めの声。それだけなのに、海未の声は強く印象に残る。波の音みたい、と言ったら海未は、物凄い形相で顔を顰めた。

私が人の話ばかりする反面、海未は物の話ばかりをした。始めは泳ぎの話、その後は映画の話、本の話、音楽の話。日が経つにつれ、海未の話はどんどん遠くなっていった。波に流されるように、確実に、私がまったく知らない領海へと運ばれていった。海未は別にそれでも良いようで、分からないよね、と言いながら、少し照れた笑いを浮かべていた。私はそれも、嫌ではなかった。小さな船に揺られて、知らない土地を踏むように。言葉を知らない異国に行くように。私は海未の言葉に、さりげなく耳を傾けていた。異国の言葉は理解できなくても、彼女の表情と温度だけで、充分に楽しかったのだった。

重たい雲が空を覆っていた。どんよりと沈んだ空気は教室まで進入してきていて、みんなわずかに焦っている。いつもより早口で喋る様子がなんだかおかしかった。その、おかしな空気が、おかしかった。海未は片耳に無線イヤホンを差し込んで、首を傾げながら映画を見ていた。時々眉をひそめたり、微笑んだり、きれいなアーモンド・アイを見開いたりしていた。私はちらちらと海未を見ながら、インスタの短い動画をひたすらにスクロールしていく。
「菜々子、今日暇?」
さざなみのような静けさで、海未は言った。
「え、うん。」
「海行かない?歩いて。」
彼女はまさに、絵に描いたようににっこりと笑う。イラストレーションのような感じではなく、絵画のようなかんじだった。突き放されたような、それでいて目を離すのが恐ろしくような不思議な引力がある。お世辞にも凄く整った顔と言えないはずの海未が、なんだか妙に儚く、色っぽく見えた。私はちょっと怖くなって、すっと目を逸らしたりした。
「映画で海が出てきて、このシーンの海も、ここにある海も繋がってると思ったらすっごい、こう、ぐっときたの。ひとりで行くから、大丈夫。」わすれて、と、海未は調子を変えずに言った。
ただ思いついただけだったようで、海未は特に気にしていないように目を画面に戻した。
「いや、いいよ。行く。」
海未はちらりと私を見て、わかった、とだけ言った。この気持ちは、告白されて付き合ったのに、振られた。みたいな気持ち。なんだよ、なんていじけたくなるどこかでどっと笑い声が起きて、なんで私は海未といるのだろう、と、本当にいじけてしまった。海未も、海も、自分勝手だ。美しいから狡くて、賢いから離れていく。私はプラスチックまみれのカラフルな浜辺で、離れる様子を見ることしかできない。いつか戻ってくると祈って待つ。

授業が終わると、空は海未と約束したように晴れた。雲はすっかり流れて、まだ暮れそうにもない。すっかり夏を思い出したように澄み渡っていた。
「菜々子、普段バスでしょ? 後ろ乗せるから。」
がしゃん。海未は塩で薄く白を纏った自転車を引っ張り出す。夏祭りのくじのように溢れた自転車は、近くで見るとそれぞれが息をしていた。怪我をして、曲がって、磨かれていた。そして、静かに眠っていた。海未に言いたくなったけれど、そんなことも知らなかったの、と笑われてしまいそうで口をつぐんだ。
「二人乗りしたことある?」
閉じた口を開かせるみたいに、言った。
「ないかも。」
「あら、優等生。」
茶化しながら、海未はひそやかに笑う。もうここには、あの恐ろしい彼女はいなかった。あの自転車たちのように、眠っている。
海未は、二人乗りに手慣れていた。荷台に無地のタオルを引いて私を座らせると、そのまま、ぐん、と走り出す。一気にスピードを上げた自転車は、サイクリングロードを海へと上昇していく。そのままスピードを落とすことなく、遠くで光り出すビルを風景に変える。ぎゅっと海未の頼りない背中を掴んだ。また、手が震えていた。海未の小さな鼻歌が風に乗って流れてきた。潮風が鼻腔をくすぐって、私は鼻を啜った。思い出すたびに鼻歌と潮風が記憶を洗って、どんどんと美化されていく。あの時私は、何を思ったのだろうか。悔しいような、憎ったらしいような気持ちだったはずだ。けれど思い出すのは、彼女の頼りない背中とご機嫌な鼻歌ばかり。陽気なステップで、悪い感情は踏まれて、潰れていく。

「うわあ、綺麗。」
「腐っても、海だね。」
「海って腐るのかな?」
オレンジのベールを被った海から目を離す。彼女は肩をすくめていた。相変わらず浜は濁った茶色で、ところどころに安っぽいプラスチックが散乱している。潮の匂い、というより、潮の臭いが鼻を突き刺す。それでも、夕焼けの海は美しかった。オレンジ色は目を離した隙に黒に吸い込まれて、映し出す海は、それに見惚れているように見える。静かに蕩けていく海は波を静かに、引き立て役に徹している。揺れる水面が飛沫を上げるたび、心音と重なった。
「綺麗だね、綺麗。」
海未は私を見透かしたように呟いた。二人とも、神秘に触れているように黙り込んでいた。
「本当に、綺麗だね。」
私も呟いて、そのまま綺麗ではない砂浜に座った。座らないと、気圧される気がした。海未立ったままだった。
「悲しいことばかりだったの。留学してた兄貴が帰ってきて、平穏じゃなくなった。中国語と英語しか話せない彼女連れてきて、うちに泊めて。親は会話もできないくせにご執心。しまいには、しばらく旅行してくるから、だってさ。男が、長男がそんなに偉いのかよ。」
海未は荒っぽく言い捨てると、大きく息を吸った。そして小さな声で、ありえない、と呟いた。大きな呼吸と小さな言葉が比較されて、彼女が酷く弱って見えた。必死に息をして、それでも吐ける言葉は小さい。
「ありえないね、それは。」
「私のご飯はなし、お金も置いてってすらくれない。冷蔵庫も空。貯金してたお金、切り崩してる。」
「うん。」
「私は愛されていなかったんだって思い出した。私はなんとなく、気まぐれでした生のセックスで産まれてきちゃった、望まれてない子なんだって。……兄貴が帰ってこなきゃ、忘れてたかもしれない。」
「私は、海未が好きだよ。仲良くなれて嬉しい。変なこと考えないでよ。」
私は、必死なり始めていた。海未はこのまま海へ歩き出して、沈んで、上がってこないような気がした。この薄暗い海に吸い込まれて、波になって、プラスチックの骨を流すんじゃないか。私は本気で、そう思った。どこにも行かないで欲しくて、手を伸ばした。海未は体を伸ばして、海に背を向けた。逆光で、表情の代わりに影が落ちている。
「菜々子は、幸せだよね。羨ましい。」
「なんで、」「本気でなんでって、言える?」
諭すように、優しい声だった。たっぷりと怒気を含んでいるはずなのに、甘さを持って、なかに小さな棘を潜めている。空が、海が、段々と暗さを増やしていく。
「私が菜々子に憧れてるように、私も菜々子に憧れてるの。ちょっと喧嘩して、それでも一緒にご飯を囲んで、ちゃんと子どもにしてもらえる菜々子になりたい。」
「……私はずっと、誰かに馬鹿にされてるだけだよ。みんなに、下だと思われてる。頭のいい妹にも、綺麗なママにも、余裕のあるパパにも。」
 私が言うと、海未は後悔したように、唇を噛んだ。これくらいの反論は許されるはずだと思いながらも、彼女の重い顔をみるのが嫌になる。
「それでも幸せだよ。馬鹿だなって思っても愛されてるから。そういうことでしょう、海未が言いたいのは。」
海未は下唇を噛み直すと、静かな海に視線を与えた。ぎりい、と睨みつけるあの視線だった。
「そうだね。色んなものに囲まれるほど、私は孤独になってる気がしてた。観てた映画で無邪気な女の子が主人公を海へ連れ出したの。溌剌としてて、前向きな子。主人公は彼女の話を聞いて、1歩を踏み出すことにする。」
海未は、ずっ、と鼻を啜った。苦しそうに息を吸う。
「菜々子は、その子みたいに私を連れ出してくれる。」
「私、何もしてない。誘ってくれたのも海未でしょ!」
「行く、って言ってくれなきゃこんなに綺麗なの見れなかった。本当に愛されてる子が居るなんて知らなかった。その子が本当は全部気付いてるなんて、知らなかったから。……それだけで、充分菜々子に救われた。ありがとう。」
ごめんねとは言わずくるりとスカートを翻して海を見た。ただ黙って見詰めていた海は静けさを孕んで恐ろしさを産んでいる。壊れかけの海未は、随分と遠くに流されてしまったように思えた。

海未はそれから何度か私を誘った。海に行くのはそれっきりだったけれど、美術館や映画、都内の大きな本屋、文房具屋。海で話した事は忘れて、私たちは普通の高校生だった、恋愛映画で海未は苦虫を噛み潰し、美術館で私はお土産コーナーを四周した。ちぐはぐ。そんな言葉がお似合いだっただろう。愛されない子と、愛されている子。合わないピースをヤスリで削り合い、無理矢理に合わせた。それは自分を削りながら相手を削ることで、正しい友情とは今でも思えない。ただ削ったことには違いなく、削った部分は戻ることは無い。それなのに、私たちは削るだけ削りあって屑を落として、そのまま離れた。

学年が上がりクラスが離れると、それはパタリと止んだ。会わなくなって削らなくなると私たちは簡単に離れられてしまった。あの海も潮風も鼻歌も、私の記憶の中でだけ生きている。それでも時々彼女を思い出す。たった一年の事を。たった一度彼女が語った人の話を。彼女は今、家族からの愛を知ったのだろうか?知らなくてもいいのよ、と言う声がする。私は頷く。

夏の出口に立つ海を見詰め、私は海未を思い出す。彼女の骨は透明で、鋭く私の足を刺す。

Special Thanks!
@Tory42512 ( https://twitter.com/Tory42512?t=RUvSm9h_FrKPSFTCt473NA&s=09 ) 
素敵な海をありがとうございます。

お読みいただきありがとうございます。あなたの指先一本、一度のスキで救われています。