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This Is Not note#3 『あえてブス殺しの汚名をきて傷つくことだけ上手になって、あんよはじょうず。は荒野を目指す。』

あんよはじょうず。主宰(俳優・作家)の高畑亜実をヤベえなと最初に確認したのは数年前に唐組と月蝕歌劇団に日替わりで同時出演をした時だ。2種類の意味を含んだ「は?」という幻聴が脳内に響く。まずは1種類目の「は?」だ。もう一度、書く。唐組と月蝕歌劇団だ。分かる演劇メイニアには分かるよね。スケジュール的には本番がズレていたから不可能ではないのだが、不可能なのよ普通は。2種類目の「は?」を言うであろう演劇ファン的にはアングラ演劇というジャンルの老舗という共通項で不思議はないのかもしれない。しかしだ。片やアングラ演劇の始祖・唐十郎が率いる紅テント・(もはや神話の)状況劇場の後継団体であり、片や80年代小劇場ブームを牽引したアイドル劇団である暗黒の宝塚(創立者・高取英は今、もっとも再評価されたいサブカル先駆者)だ。こう書いても「不可能なの?」と聞かれてしまうと「深くて暗い河があるんだよ!長州力なら言うね、またぐなよ!って!またぐなよ、コラって!誰も渡れぬ河なれど、高畑亜実はエンヤコラ舟を出したんだよ!」とキレるしかない。いや、キレてないですよ。詳しくは(別に対立とか因縁ではない。感覚だ)各自調査。ここでは結構な難しさなんだと認識してください。それを両劇団に認めさせるくらいだから実力は当然として、頭おかしいんだろなあと当時は感じたもんだった。その印象は今でも変わらない。頭おかしいんだよなあ。

次にヤベえと確信したのは『柿喰う客』の舞台でだ。前年に柿フェス『サバンナの掟』に出た時は「メジャー小劇場にも興味あるんだ」ってくらいのバリバリアングラヤンキー上等だったイメージをいっぺんで一変。中屋敷戯曲に馴染みまくっていて美しさと気持ち悪さを同時に噴出させていたが、この時の『極楽地獄』(2015年の傑作)では段違いのスケールで舞台を制圧。なんたって、役名が「肉屋の少年」ですよ。肉・屋・の・少・年。もう字面で凶々しさが伝わると思うが、もどかしいね、演劇は!もどかしいよ!観れば分かるのに!(心置き無く文章力の無さを露呈)確か『極楽』はDVDで観られる筈だ。なるべくあまねく観て欲しい。もうヤベえから。眼が。眼が、ILL。この頃はいろんな小劇場でヒロインを任せられていて大抵は美女前提なのにいつも血塗れなのが、たまらなくおかしかった。それか、伝説の東京グランギニョルに出演していそうな美少年役。どこまで行ってもフロム・アンダーグラウンド。

その流れで『大統領師匠』に出ていたのが、さらにおかしい。いきなり、コント。優秀な喜劇人がシリアスな舞台に登場する時、その破天荒さを内部に圧縮して凄みを増す定番の反転。狂気を異空間に移動させておいての義体みたいな完璧な常人としての演技で最高に笑わせてくる。真顔がおかしいってコメディエンヌの条件だと考えるが『劇団健康』時代の秋山菜津子を思い出す、真顔。真顔が、ILL。そんな(どんな?)高畑亜実が立ち上げたのが、『演劇ひとりぼっちユニット・あんよはじょうず。』だ。でーん。やっと、現在に追いついた。現在までに2回の公演を行っている。まだよちよち歩きの劇団な筈なのに芝居の完成度が、異様に高い。完成度の定義は各自で。あんよはじょうず。を名乗るだけのことはある。この夏、フルオーディションによる番外公演を経て年末には第3回公演に唐組・久保井研を招聘する。あんよはじょうずってレベルじゃない。あんよが見えないくらいに早い。パタパタパタパタパタパタ!

本人が「美しいものが、すき」と宣言するだけあって、その特徴はフライヤーを見ても(その昔、唐十郎はポスターは「劇団の旗」だと言った。現代ではフライヤーが「劇団の旗」をギリギリ維持している)分かるように独特の美学に立脚した過剰なビジュアルだ。これも本人が言ってるのだが「自分の愛する美しい俳優をこう美しく見せたい」みたいなところ(これもまた、唐十郎が語っていた「まず、パリッとした役者体があるべきなのです」に繋がる)から作劇が始まるらしい。だいぶ変わっている。その意志じゃなくて、その趣味が。あんよは基本的には高畑が共演した俳優を集めるので、俺には既知の俳優ばかりなのだが、美しさって意味では理解していなかった。いや俺の趣味が変な可能性もあるのか。横に置いておく。その俳優たちを未知のビジュアルで仕上げる。こ、この人たちこ、こんなにか、カッコいいんだ。SNSで見てるかぎりでもまずはフライヤーのビジュアルにヤラレている人は多い。いい旗。でもよく考えたら、このビジュアルだいぶ変わっていない?この趣味、だいぶ変わっていない?いや俺の(後略)。縦に置いておく。今回のフライヤーにあった台詞だかコピー「誰かにとってのゴミを抱っこしてなでなでしてあげる」が頭に浮かぶ。なるほどね。この人、SNSでも先述の「美しいものが、すき」を連呼した上で自分がきらいなものに対しても厳しめ(に響く)な言及をするのでルッキズムの権化に誤解される勢いだが、上とか下とかじゃないんだな、幅なんだ。美しさの基準の幅を広げたい。その為なら、あえてブス殺しの汚名だって、きる。それ以外は、死ね。てか、これだって美しいじゃん?ほら美しいだろ?美しいって言え、ばか。はい、美しいです。

舞台を見ているとアングラ演劇・コンテンポラリー小劇場・コントと経歴を目眩くレイヤーした中に潜んでいるな、これと睨んだのは『松尾スズキ』だった。松尾(舞台の常連だった金子清文が年末公演に出るシンクロ、ヤバイ)の因果応報ドラマの大事な要素である「忘れられることへの恐怖」がヒドゥンされていた。酷い、忘れた?あたしのこと忘れんじゃねえよ。てか、忘れたら殺す。忘れられたら、死ぬ。何、忘れてんだよ、そこの、そこのお前だよ。傷つくことだけ上手にならないと生きてはいけない。大変にかわいいと言ったら失礼か。俺はかわいいものが、すき。それ以外は死ね。

構成が中期松尾スズキを想起した(そんなには似てないが)意外にウェルメイドな仕上がりだった旗上げの『白痴』から2回目の『夜べ』はかなり様変わりしていて、轟音!台詞!轟音!と徹底的に観客を蹂躙しているのを見て最新式のアングラと言いたいのをぼんやりと違うな何だっけこのテクスチャーと、このnoteを書くまではとりあえずの答えも出ないままにタイトルだけアタック感重視でつかこうへいの2冊のエッセイ集からサンプリングした瞬間にオチが降ってきた。台詞!轟音!台詞!つか舞台じゃん!始まりはいつもオチ。台詞と音楽を常にフルスロットルのままドラマとエモーションを観客に叩きこみ続ける醍醐味のつかこうへい舞台と(多分、かすってもいない)高畑亜実のあんよはじょうず。が似ていることに気づく俺の自己満足フルスロットル。あ、そういえば、SNSで物議を醸しげな発言を連発する高畑を見ていて『手から毒が出るねこ』(原田ちあき)だと笑っていたんだった。もうどくは手から毒がでるので ほかの猫と 手を繋ぐことが できません。切にゃい。「つかこうへいは“逆説”の人だった」(©︎長谷川康夫)。高畑亜実も逆説の人だとファンは思う。俳優でいたいのに作家になった。愛されたいのに愛しているだけ。安寧の地を目指したら荒野を彷徨う。笑えにゃい。でも意志ではなく才能が、未来を選ぶこともある。この夏に何か舞台を観たいなら、このエッジだらけの才能を選ぶのはどうだろう。この瑕疵だらけの文章でそれを望むのはどうだろう。でも趣味ではなく才能で、演劇を選ぶのも楽しいよ。自信はたっぷりだけど、騙されたと思って観てみてよ。騙すよ。騙されて……夏。

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