俺の家の話のはなし。

ねえ見ました?見てました?「俺の家の話」
最終回から1週間が経ち、4月を迎え長瀬智也は私達の前から居なくなってしまった。

クドカン×長瀬ドラマ好きとしては、去年発表されてからそれはそれは楽しみにしていたのです。
全然noteを書き始められなかった私だって、これはもう書からいでか!

「俺の家の話」は長瀬智也に贈られた壮大なはなむけのドラマのようであったし、観ている私達はこのドラマが終われば<TOKIOの長瀬君>がもう居なくなってしまう事を知っていた。
盛大に送り出すように往年のドラマの数々を思い起こさせるシーンや台詞、共演していた役者が次々と登場し、その作り手と演者の思いにも胸が熱くなる。
認知症によって夢現を行き来する寿三郎のように、私達もフィクションの中で現実を重ねてしまうような不思議な感覚で夢中になった作品となった。

そして、今までになく身につまされたっつーか何つーか。
自分はもちろん、親も確実に年を取り、決定的に何かが変わっていく気配も感じていて、もう自分はこれまでと同じでは居られないのかなと心のどこかに漠然とした不安がある世代だからだろうか。

どのドラマもそうだけど、クドカン脚本は誰も置いていかない。どんな立場境遇の人にも徹底して寄り添ってくれる、軽口を叩きながら。
介護や現役引退や学習障害や離婚や、男社会の中の女性の立ち位置や。
私達がぼんやりと抱えている不安。そう遠くない未来に直面するであろう問題。渦中にいる生きづらさ。なんとなく気付かないふりでやり過ごしきたこともすべて。軽やかに笑い飛ばす勢いで眼前に差し出された。
笑いながらハッと気付かされる事がそこかしこに散りばめられている。
その度に奮起したり自分を恥じ入ったり学んだり。笑って泣いて受け入れていく覚悟が生まれる。
最高のエンタテインメントじゃないか!

最終回は能の演目「隅田川」を軸に描かれており、舞台上に死んだ息子の亡霊を出すかどうかで世阿弥と息子が揉めたという話を寿三郎から聞いた際の寿一の言葉。
「俺が息子だったら出てくるよ、だって会いてえもん」を聞いた寿三郎があまりに愛しそうに「そうか、お前だったら出てきちゃうか」と優しく笑ったのが印象的だったけど、これがまあ効いてくる効いてくる最終回。
時間軸を曲げて翻弄される心地よさ、緩急に次ぐ緩急。よ!真骨頂!と言いたくなるぐらいの大団円。

このドラマ、好きなシーンをあげたらキリがない。

第1話からあの長瀬智也が老眼。
別にいいだろ、あんた八百屋じゃねえんだから。
フェーズ?
阿部サダヲがバーン!と襖を開けて登場した時の圧倒的な華!
老人ホームでの父息子のシーン。松葉杖の歩みの切なさ。
もっと取り乱してよ、若いころの織田裕二みたいに!
見逃してない?伏線!
西田敏行が朗々と歌い上げたマイウェイ。
心拍数大喜利。
寿一のミサイルキックからのムーンサルトプレスのなんという美しさよ!
フリースタイル弔辞、規格外の骨壺のでかさ。
革命戦士・長州力の「またぐな、またぐなよ!」
レスラーは何回引退しても何回もカムバックすりゃいいんだよ。
そうか!だからアイスが貰えなかったのか、電気を消されたのかと気付いた時の衝撃。
もう見られないかもしれない、長い脚でマイクスタンドを操り歌い踊る姿も見せてくれた、スパリゾートハワイアンズで。ムード歌謡だけど。

はあ、もう書き出したら終わらなくなってきたので、このへんで。

そして長瀬智也はステージにそっとマイクを置くのではなく、
自分ではない誰かを演じ切るマスクをリング上に天高く放り投げて去った。さよならの代わりに。

なぜそんなにクドカン×長瀬ドラマが好きなのかと問われればこう答えたい。
そうゆうもんだからだよ。

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