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[日記]2020年12月19日(土)

 夜に食事の約束があるが、早めに集まることとなり、代々木公園に数人で集まる。寒空の下の代々木公園にはそれでも疎らに人がいて、それぞれがそれぞれの時間を過ごしている。同じ場所にいながらも、別の行動をし別のことを思考する。もしかすると、この場所は世界の縮図であるかのように思えてくる。

 公園の奥へ進むとこの寒さの割には薄く、かつ可愛らしい服を纏った女性を被写体にしている団体を幾つか見かける。一眼レフやポートレート撮影の機器が手軽に入手できる現代だからこそ、あのような行為が流行しているのだろうと、友人と話しながら通り過ぎる。その場には和やかな雰囲気が漂い、その場にいる人は皆、撮影の時間を楽しんでいるように思える。しかし、例えば、と思う。被写体の女性が撮影されることを快く思っていない場合、撮影者の手元に残るのは撮影されることを快く思っていない女性の像である。おそらくそれは、撮影者が写したいと思っている像とは、相反するものではないだろうか。そして、撮影者はその事実に気が付かぬまま現像をし、より美しい像へと変換する。女性の肖像は、笑顔のまま永久に撮影者を欺き続けることとなってしまう。外側から見ると和やかに見える関係性の中でも、一対一、或いは一対複数となると、緊迫感がその場を支配する。それぞれが眦を決して、視線を交わさなくてはならない。

 その緊迫感を解くには、信頼が必要である。被写体と撮影者の間に、お互いを恣にさせるだけの余裕、手綱を握る、否、身を委ねられる程の余白が必要だろう。辺りを見回してみると、世界の縮図に思えた公園は、個々の関わりの緊迫感が横溢していることが分かる。談笑しているふたり、それぞれを追いかけている複数の男女、ましてや飼い主とペットでさえも、それぞれが交わす視線の先には相手がいて、常に関係性の境界を見遣りながら、ここに存在しているである。そして、この関係性は肖像とならずとも、流動的に境目を変えてゆく。漣が立つように常に揺れ動き、人々の境界を曖昧にしてゆくのである。

 ここまで考えた時に、冷たい雫が目の前を滑り落ちた気がする。ふと空を見上げると、霙とうよりは雪に近いものが落ちてきている途中であった。初雪だろうか。大量に降り注ぐ前に公園を後にしなければと思い、急いで原宿駅方面へと引き返す。

 落ちてくる水滴を避けながら、先ほど団体が撮影をしていた場所を見ると、既に人気はなく、私の頭上と同じように雪が降っている。そこに緊迫した空気はなく、ただそこに湿った空気があるだけであった。

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