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[日記]2020年10月25日(日)

 今日は『ののの』の読書会の日。直前の二十三日にようやく読み終えることができた。

 収録されている「ののの」、「かぜまち」、「ろんど」、それぞれの短篇には、共通するモチーフがあるように思う。記憶、思い出、そして忘却。思い出すこと。脈々と語られてゆく中で、それらを繋ぎ止めるものは、あくまでも個人的な主観による記憶や忘却でしかない。それらを他人、例えば主人公に対する他人や、著者から見た他人など、そのような人々に共有することの難しさに難儀している様子が表れているように思う。

 BREWBOOKSで開かれた読書会には、著者の太田さんや書肆汽水域の北田さんも参加されている。参加者が思うキーワードを紙に書き、ガチャガチャから引いて話をしてゆく形式である。

 引き当てられたキーワードは、父親や白、ひとり、そして思い出など。いずれもこの作品を紐解く上で重要なキーワードであると思う。ケンジの記憶から甦る父親、何も書かれていない本の色である白、その白は記憶の曖昧さや空白へと繋がってゆく。街を隔てる白い壁。白い壁の向こうには、名もなき街が存在している。存在の不確かさ。

 話が飛び交う中で印象に残ったのは、太田さんの「分かる、分からないのその次」という言葉である。理解することを「分かる」と言う。そして、文学作品、文学作品のみに留まらず、人間同士でも「分かる、分からない」が価値基準となることがままある。しかし、その場所に留まるだけでは面白くなく、「分かる、分からないのその次」の段階がある。太田さんは「勝手口」を例に出して、“目の前のドアを開けようと一生懸命にドアノブをガチャガチャといわせている時、ふと後ろを振り向くと勝手口が開いているような”と仰っていた。それは決して邪道を意味するのではなく、ひとつの読み方の提示、理解の仕方の提示として受け止めた。

 書肆汽水域の北田さんは、『群像』に掲載された太田さんの「リバーサイド」を絶賛されていたので、是非掲載されている『群像』を入手したいと思った。目を光らせておく。

 最近は仲間内の読書会も含めて、ひとつのことについて考えることに徐々に慣れてきたように思う。頭の中に浮かんだものを言語化し話すことで人に伝えることの重要性を、身にしみて感じている。これからも自らの訓練としても続けてゆきたい。

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