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[日記]2020年4月22日(水)

 やっと週の真ん中。朝、コーヒーを淹れて窓を開け放つ。それほど風は入ってこない。このアパートは風通しが悪く、ベランダへ続く窓と玄関を同時に開けないと、風が吹き抜けていかない。せめて家にいる間は開け放しておいても良いが、机に向かっていると玄関は死角となる。見えないことの恐怖に脅かされるので、目が届く時に開けておこうと思う。

 仕事。いろいろ行う。あちらに連絡し、こちらに連絡し。調整をして資料に反映して共有する。とにかく無心で働き続けるしかないのだろう。意味を考え出そうとすることは野暮でも、何も意味を見出さずに続けることも恐ろしい。何のために、何のために。階層はひとつではない。何のためか、では自分は何のために行為しているのか。文字で書くと客観的姿勢に捉えることもできるかもしれないが、これは非常に個人的な思索である。結局自分は自分の内面に潜るしかないのか、と一瞬で思う。そこまで悲観的になる必要もないと思うが、元来の性格からして思考の道筋はある程度決まっていて、どうしてもそのレールを容易に外れることができない。このレールから思考を解き放ち、悠然と走り続けなくてはならない。イメージ映像は、銀河鉄道の夜だ。

 仕事を終えると、やはり疲れているのだろう。考え方が一辺倒となってしまう。ある画角から物事を捉える、考える。その映像はやがて平面となり、焼き付いてしまう。正面から見ても、裏から見ても、そのフィルムのひとつの側面しか見ることができない。いつかの日記にも同じようなことを書いたような気がする。日々の繰り返し。同じことを考え動いていると、結果同じことしか考えつかなくなってしまう。何だか味気ない。「味気ない」と書くと、「ガム」が浮かんでくる。感覚では「噛んでも噛んでも味のしないガム」か。この味気ない感覚をより強調するのであれば、「味のしないガムだと認識した上で噛み始めたら、やはり味のしないガムで期待通りだった」という長い時間、行為ひとつを内包した動作の感覚に近いのではないか。

 徐々に変な話になってきた。思考が曲がったまま、今日は戻らない予感がするので大人しく寝る。ニューロンから疲れ切っている。


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