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[日記]2021年3月20日(土)

 これから語る出来事は、瑣末ではない事柄に上塗りされた事項かもしれないし、単なる虚構の産物でもあるかもしれない。しかし確固たることは、此処に綴られた事項は有り得べき轍を仔細に描写するような奮励であり、いつかは薄れゆく風景を筆でなぞるような行為そのものである。それほどまでに曖昧模糊な《私》を語る《私》は、何処にいるかは分からないが、記憶という甘美な響きに寄り掛かることのない言葉に、《私》は《私》を託すのみであり、浮かび上がる言葉を理解し、流れざる歴史に視線を滑らせる。

 相変わらず電車に乗って身体を運んでいる。直線に身体を移動させることの困難は、電車に身体を預けることで簡単に解決できる。空気の流れは緩やかで、忙しなく聞こえる乗客同士の会話に今日は耳を傾けることなく、空間をしなやかに漂う音楽で鼓膜を塞ぐこととする。「ふさぐ」に「鬱ぐ」という漢字が当てられるのは如何様な成り立ちであろうか。考える隙間もなく「いかように」に「如何様」という漢字、「いかさま」と読ませる漢字に辿り着く。「いかにも」そして「まやかしもの」。思考が押し出されるように言葉を渋滞させる。意味に意味はないのかもしれない。気が付くと目的の駅に着いていて、自己の思考と同様に押し出されるように駅のホームに足を着ける。

 目的地から最寄りの駅へ戻り、古本屋へ立ち寄り『新樹の言葉』(太宰治著 新潮文庫)を購う。「葉桜と魔笛」が収録されており、葉桜を待つ時候には少々早過ぎる感受かもしれないが、行き着く季節を言葉の鮮やかさで識る充実には「偕楽」という漢字を当てても良いのではないだろうか。

 久方振りに台所を本来の役目として全うさせ、課題本を改めて紐解く。著しく特徴的な世界への視線に滞りのなさを覚えるも、理解を妨げる饒舌さに危険を孕んでいることを認識して、他の本へと移ることにする。深く考えることもなく言葉を思考し、押し出されるままに触感で味わうことに罪悪感はなく、洪水を堰き止めることのないように濁流を弄ぶことは、深夜にこそ相応しい行為であろう。沈みゆくことは何もない。夜の中心で立ったまま水死を遂げる大黄を『水死』(大江健三郎著 講談社)の中から思い浮かべるのである。

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