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[日記]2021年3月9日(火)

 昼の休憩の時間に、ふとマスキングテープが必要だったことを思い出す。何を見た訳でも、指摘された訳でもなく、ただふと思い出しただけである。忘れ去ることが乱暴で自己勝手であるのならば、思い出すことは優しさに貫かれた行為であろうか。ただ思い出すことは、忌避すべき事柄も含む時があり、粗雑に分類すべきではないかもしれないと思う。

 三省堂書店 古書館に寄ると『招魂としての表現』(古井由吉著 福武文庫)を発見する。長年探していた本がふとした瞬間に現出し、上手く視界に入れることができたと思い、休憩時間を終える。

 帰りしな『招魂としての表現』内の「「私」という虚構」を読む。「私」という一人称を使いながら小説を書くことで、「私」と作者の間に一定の距離を保つと虚構が成り立ち易くなると氏は書いている。この日記も「私」や「自分」という認証を使用して、時間的に過去の「自分」にまつわる事象を書いている。過ぎ去った時間は須く過去となるが、「私」からある程度の距離を置いてこそ、真の過去となり得る。そして、真の過去となった上で日記に文章として認められる。この文字で表された瞬間に、日記に書かれた「私」が現出するのである。小説と異なる点は、日記である以上、事実に基づく事柄が書かれる点である。余りにもそこにある現実を忠実に準えている時には何も起こらず日が過ぎるだけではあるが、虚構が入る余地はなく「実」に近づく生身の現実があるだけである。

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