見出し画像

[日記]2021年2月21日(日)

 高円寺に井口可奈さんの個展「ちからはパワー」を観に赴く。夕方訪れた高円寺では、居酒屋が路面まで席を展開し、複数の客が酒を飲み交わしている。喧騒は裏路地まで響き、焼き鳥を焼く煙が視界を染める。

 路地を迂回して個展の会場へ辿り着く。ちょうど休憩中であった井口さんと目が合い、差し入れを渡す。程なくして、井口さんが小説を書き始めたのでその姿を“展示として”見ることとする。

 小説が生まれる瞬間を見続けているのは、非常に稀有な出来事である。頭の中に浮かんだ不鮮明な光景の連なり、それらを文字に変換する時には完全に世界を一旦閉じ切らないといけないと思っていた。窓を閉め切った部屋で、夜の真中で浮かぶ事象を文字でなぞってゆく。不釣り合いながらそれらの文字を積み上げてゆくと、連なりが目に見える形となって表象する。それらをイメージと結び合わせて初めて小説と呼ぶ。それは完成することで初めてそれに成ると思っていた。しかし、井口さんが小説を書いている過程を見ていると、“完成され得るもの”でも小説と呼べるように思える。さらに“完成され得るもの”には求心力がある。進み戻りつする物語を読んでいる、或いは見ていると、小説をこの場で“読んでいる”という心情となる。完成されたものではなく“完成され得るもの”でも読むことが可能であるのだ。この発見は、客観的に小説を書く井口さんを見て、初めて言葉となって表象されてくる。小説は形に囚われてはいけない概念であることを認識させられて、非常に大きな刺激を受ける。

 展示を観終わり、ふらふらと北へ進むと「古書十五時の犬」と出会う。吸い込まれるように中へ入ると、建物の梁までそして天井まで古本が詰まっていて、思いの外長居をしてしまう。『日本近代文学の起源』(柄谷行人著 講談社文芸文庫)をはじめとして、厳選して六冊を購う。再び足を運びたくなる場所を見つけ、嬉しくなりながら暗くなった路地を高円寺駅まで歩く。

 概念に囚われることなく思考をしたいと強く思う。諦念を感じるにはまだ早いと、積み上がった本を見て柄にもなく思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?