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[日記]2021年3月24日(水)

 残滓は暮れ残るばかりのように、後ろへと伸びてゆく。通勤する電車の中で本を拡げて文字を手繰ってゆくと、敷かれたレールの上を逆向きに走るように、思考が伸びてゆくのが分かる。以前読み進めた言葉の記憶を辿るように思い出されることは、唯々事物の断片がプリズムのように色彩豊かに移ろいゆくことを私自身の中で肯定しているように思える。

 普段より早く会社に着くと、誰もいない空間がより鮮やかに見えて、鳴る電話の音も日常を振り払うように空気を振動させている。

 昼休みには神保町を逍遥して『象徴交換と死』(ジャン・ボードリヤール著 ちくま文芸文庫)を購う。経済のことには何も明るくはないが、我々が生きる世界において「表出し得るもの」は「何らかの記号」に置き換えられるのではないかという意識がある。それは単に表層のみを切り出した概念ではなく、誰かが誰かに何かを伝える時にそれが「記号」として伝えられるのでは、という意識のような気がしている。シニフィアンとシニフィエとは言語学的には定義されるものの、それはあくまで言語学的な考え方で、それこそが言葉の表層のみを、或いは記号としてのみの概念であり、ソシュールが意味することの本質が、私の言葉で上滑りしてゆく危険性を孕んでいると思う。知悉しているとは言い難い概念を並べ立てても良くはないので、現時点では印象という言葉に置き換えて、後々詳細を知ってゆかねばならないと思う。

 夜は『未来のコミューン─家、家族、共存のかたち』(中谷礼仁著 インスクリプト)の読書会の続きである。オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』に登場する都市が、田園都市構想に近しいことに言及している。この言及も窮めて興味深いものではあるが、この物語に登場する「ソーマ」の方に気を取られた。「ソーマ」は不安や羞恥心や心配を何の害もなく取り払うことのできる、謂わば合法的なドラッグである。ハクスリー自身は、幻覚剤であるメスカリンを自らの身体に投与し、被験者となった体験を元に『知覚の扉』を著した。彼が実験中に見た世界は『すばらしい新世界』であったのか。彼の眼を通して見た世界の様相を想像して、生半可な知識では想像し得ることも叶わないと悟る。

 自分自身に枷を課すように、読まなければいけない本が溜まってゆく。ただ、それすら快感になってゆくほどに本に取り憑かれていて、この状態が続けば何事にも替え難い興奮を得ることができることも分かっている。ハクスリーが「ソーマ」という定義を創造したかのように、一種のこの状態に名称を当て嵌めることができれば、私自身を取り囲む事物が、改めてプリズムのように光り輝き出すのではないだろうか。

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