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[日記]2021年3月25日(木)

 息継ぎの記憶は殆どないことを自覚する。飛び込み台から水中へ潜り、顔を水面から半分ほど浮かべるまでの数秒間、呼気は水泡となって水中へ姿を現す。身体の側面に沿って足先へ流れてゆき、水面へ辿り着く頃には、その姿を消している。一度水面へ浮上した私は、空気を求めるために軽く口を開けて、幾つかの水飛沫とともに、必要な空気を過不足なく体内へ吸収し、再び水面の少し下へと身を潜める。潜航する船のように、その時ばかりは水面の水飛沫を避けているのかもしれない。体内へ取り込んだ空気は、数秒を数える間もなく、もう一度水泡へと帰される。一連の動作が遂行されることで、水中の身体は前へと進みゆく。

 水泳の動作を思い浮かべるのは、呼吸という動作の不可視化、それは繰り返されることで可視化を拒む“動作”そのものの習性であるかもしれないという側面を思い、陽が上ってから沈むまでの時間を労働へと割き、呼吸の純粋な役割を御座なりにしている自らの為体に思いを馳せながら、夜道と呼べる暗さの歩道をスーパーへ向かって歩き出した瞬間の出来事である。

 商品を手に取りながら、週末の「吉祥寺ZINEフェスティバル」のことを考える。選書や配置、客層へと思いを巡らせながら、時間を掛けて店内を歩き回り重たくなったかごの質量にて、漸くレジへと足を向ける。

 明日一日のみの平日を前に、思考は空白を生み、飛び越えた末の土曜に期待をしながら、淡く滲む朝の訪れを合図に平日を迎える準備をする。

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