【エッセイ】上手宰を読む①
上手宰を読むー「放火魔の実践論」
上手宰という詩人がいる。一九四八年に東京に生まれ、中学一年の頃から詩を書いている。高校生の時には学生新聞や受験雑誌への投稿を繰り返し、寺山修司や大岡信にその力を認められていた。哲学とキリスト教への関心が強く、詩にもその影響が見てとれる。今までに刊行した詩集は8冊。主な受賞歴は評論で詩人会議新人賞、詩集『星の火事』で壺井繁治賞、詩集『しおり紐のしまい方』で三好達治賞。この上手宰の詩はおもしろい。その比喩の巧みさはもちろんだが、その世界観なのだろうか、詩の世界に入り込むのが心地よい。
彼の詩の特徴は、抒情の価値を大切にしながら、しかしその抒情に酔うことはなく理性によるコントロールを試みているところだと思っている。戦後すぐのころ強く語られた抒情の否定に、彼は与しない。かと言って、陶酔を良しとするわけでもない。酒に酔うのは好きだが、その酔っている自分を客観的に見るのはもっと好きだ、という感じか。
まあ、ここで彼の思想には深入りしない。深入りするほどの理解はできていない。彼の詩を通じて私はこう感じている、というにすぎない。印象を簡単に言うなら、血みどろになっている自分の心から抽出し戯画化した抒情を、陽にかざして見せてくれる、そんな感じだ。
その世界は不思議と自分に重なってくる。ああそういうことか、と思うことがある。読み返すたびになにかしらの発見がある。だれかに話したくなる。
そこでこれからしばらくのあいだ、ぼくは上手宰の詩を読みながらどこがどんなふうにおもしろいのか、気がついたことを書いてみようと思う。高階秀爾は日曜美術館で、それについて語り続けることのできるもののことを名作という、という意味のことを言っていた。なるほど。だったらぼくは上手について、上手にとはいかないけれど語り続けてみよう。
まずは一冊を読む。詩の一編一編をしつこく読む。そして、浮かんできたことを書きとめていく。それは覚え書きだったり試論だったりただの感想だったりするだろう。ぼくの理解と無理解も浮かんでくるだろう。それはぼくにとってきっと楽しい経験となる(読まされる人には迷惑かもしれないということは、今は考えない)。
繰り返すが、上手が何を言おうとしているのか、について論じることはぼくには難しい。だから、読者としてこの詩にぼくは何を読み取ろうとしているのか、について論じることを目指したい。
さて、どの詩集から読もうか。どの詩集もおもしろいが、ぼくとしては『星の火事』から始めたい。これは上手の第二詩集として一九七九年(奥付では一九七八年)に刊行されている。詩人三十才の時の、二十代の総決算とでも言えそうな、そして新しく次の時代へと移っていこうとする予感に満ちた、そんな詩集だ。
後書きによれば、この詩集には一九七四年以降の詩がおさめてある。それは、彼にとって大きな転換期にあたるころだったようだ。『上手宰詩集』(土曜美術社)の年譜を見ると、一九七四年に千葉大学を卒業。ちょうどオイルショックのころで失業も味わっている。一九七六年には、その後定年まで勤め上げる業界新聞に就職し、一応の安定をみる。一九七七年には結婚、一九七八年には長女の誕生。まさに人生の大きな一里塚、マイルストーンとでも呼べそうな頃の詩が収められている詩集ということになる。たぶん、この詩集にぼくはこの詩人の根っこを見ようとしている。
この詩集には十五篇収められているが、その中に詩集のタイトルとなっている「星の火事」という詩はない。最初の「放火魔の実践論」にそれをおもわせる一節があるから、タイトルはそこからとられたものなのだろう。
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放火魔の実践論
自分がはじけとぶことによって
世界はさくれつしないことを知った一人の男が
放火魔になった
寒い冬のなか
たくさんのマッチ箱でポケットをいっぱいにして歩きまわり
うす暗がりの
貧しくて燃えやすい家ばかりねらって
いやしく マッチをするのである
小さな炎を二つのてのひらで囲いこみ
心を抱くようにやさしく風から守らなくてはいけない
うまく燃えはじめて
あかあかと夜空がひろがり
サイレンが鳴り響き
影のように人々が走りまわり
雑踏と叫びでうめつくされると
世界が自分にほほえんでいるように思える
けれど彼はまだ一度も本当に放火をしたことがない‥‥‥
彼がそれを実行に移すのはまだまだ先のことだ
彼はいつも
外国の言葉が看板になっている喫茶店の一つに入る
そしてマッチ箱を二、三個ポケットに入れる
誤ってマッチをくれない店に入ったりすると
最初はかなり逆上するのだが
すぐに気を取りなおし、ていねいな口調で
マッチの社会的必要性を説いてから
威厳に満ちて出てゆくのである
彼はタバコを吸わなかった
マッチがもったいないからである
放火にライターを使っては無論いけない
それは正当な方法でないと彼は固く信じていた
どんなに大きく火の手が広がっていっても
その中にちいさないっぽんのマッチが
燃えていることが彼の喜びなのである
自分のようにやせ細った炎ではあっても
小学校を出たことに彼が誇りをもっていたのは
星がみな大きな火事であることをそこで知ったからだった
彼はよく、感動しながらそのことを語った
星をみるたびに彼はポケットの中で
角ばったマッチ箱をきつく握りしめるのだった
”世界は今にみな燃え上がるのだ
それは遠い星の物語なんかじゃない”
急に眩暈がすると
きまって彼の中を消防車がサイレンと共に
つきぬける 何台も何台も何台も何台もーー
一本のマッチに
彼らが襲いかかってゆくのが見える
彼は燃えろ燃えろとわめくのだが
そのときはっと目覚めて路上に立ちつくしている自分に気付く
マッチをあさらなくてはいけない
どこが貧しく みすぼらしくて
火をつけるにふさわしいのかも偵察しなければならない
燃え上がろうと望んでいる建物があるはずだ
何かから取り返されることを願っている
俺たちの街があるはずなのだ
まだ一度も放火をしたことのない彼の
小さなアパートの一室には
窓をおおい隠すほどに山積みされた
マッチ箱があり その一角は崩れ始めている
まだ一点の火にもなれない それらの夢にとり囲まれながら今日も
彼はゆるやかに眠りにつくのである
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「自分がはじけとぶことによって/世界はさくれつしないことを知った」
世界を変えたいと願ったとして、権力を持たないひとりの人間にできることは限られている。自分ひとりの持ち得る最大の力とは、自分を犠牲にしてはじけとぶことなのかもしれない。しかし、そうしたところで実際には世界を変えることができないということを知ったとき、たいていは無力感に包まれる。自分にできることは何もない。
一九七二年のあさま山荘事件に代表されるようないくつかの過激な活動が、人間の残虐性を露わにして破綻していった記憶は「はじけとぶこと」の無意味さを示してもいただろう。
この「一人の男」は無力感に包まれたとしても、そのまま社会の中に埋もれていこうとはしなかった。そこで、彼は放火魔になった。そうか、自分がはじけとぶかわりに、他人の財物に火を付けてまわろうというのか。破壊を通じて世界を震えさせ、せめてもの腹いせをしようとしているのか。
「うす暗がりの/貧しくて燃えやすい家ばかりねらって/いやしく マッチをするのである」
放火魔になること自体、世界を変革していこうという夢とは異質だ。まして、貧しい家ばかりを燃やそうというのは、もうだれの共感を得られるはずもない「いやし」い破壊だ。
ただ、ここで「いやしく」という評価は誰の視点のものなのか、ということが気になる。マッチをくれない喫茶店での振る舞いなどを考えると、この男は自分ではいやしいとは思っていない。むしろ誇らしい行為と考えているのがうかがえる。では作者の視点だろうか。いいや、この詩全体を通して男に寄せるユーモラスな視線のあたたかさを感じるから、これも腹に落ちない。
男が変えようとしている「世界」、彼のつけた火を消そうとして襲いかかっていく「彼ら」、それらの価値観こそが、男の行為を「いやし」いものとしておとしめている。だから貧しくみすぼらしい家に火をつけようとしているという評価は、男の行為を否定しようとしているものたちの価値観によるものだ。男の目にはそれらの家は違って見えている。貧しくみすぼらしく見えさせているもの、それらの価値観が示すものこそが、男が破壊しようとしているものだと思える。
「燃え上がろうと望んでいる建物があるはずだ/何かから取り返されることを願っている/俺たちの街があるはずなのだ」
彼の目にはこう見えている。だから俺たちの街を取り返すために火を付ける。俺たちの手に取り返すためには、その街のうすくらがりにひっそりと貧しくみすぼらしくされているものたちが、大きく燃え上っていくことが必要だ。社会の中でみすぼらしく貧しいままに置き去りにされているものたちが、自分たちを取り戻そうと立ちあがり燃え上がること、そしてその中心に小さいけれど彼のつけた一本のマッチが燃え続けていること。それこそが彼の望む放火ということだ。
火事は、自分が火をつけたところだけが燃えるのではない。つけた人の意志をこえ、大きく燃え広がっていくことがある。私のつけたのはこんなに小さな火だ。しかし、火自身の思いで、あるいは周りから寄せられる共感の力で広がっていった。そういう思いが放火魔にはあるのかもしれない。それは詩人を思わせる。人々の心の中で燃え広がっていく一編の詩。
この宇宙の星々が輝いているのは、その星たちが火事で燃え上がっているからなのだ。だれがつけたのかはわからない。だが、つけられた小さな火はその火自身の持つ力で大きく燃え上がっていく。ついには一つの星すべてとなって。
それはまるで、大きな篝火のような希望を感じさせる。小さくはじまった希望が、その希望自身の力で大きくなっていく。一本の小さなマッチから始まった火事、そこは、貧しく見えているけれど燃え上がることを待ち続けていた俺たちの街なのだ。
ただ、男は最後までついに火をつけずに終わってしまう。火をつける対象が見つからない。燃え上がろうとしている街を見つけられない。自分を取り戻そうとしているものたちに出会えない。理念をかかげその準備も済んではいるが、ついに現実の行動には出られない。そういえばタイトルは「放火魔の実践論」、ちゃんと「論」がついている。
世界を変えるかもしれないのは、小学校卒を誇る男と喫茶店でもらった無料のマッチ一本、という一切の権力から遠く離れたものたち。この組み合わせにこそこの詩の本領がある、と思う。そして、ついに行動に移せず眠りについてしまう男を静かに見ているところに、本質があるのかもしれない。眠りにつこうとしている時代と世界。
このあと、男の眠りがとけ、放火によってひとつの星が燃え上がる日は、いつかは来るのだろうか。
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