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「縁」と「縁分」

「まだ連絡が来ていない…」何度目だろうか、LINEのトークの通知を数分おきにチェックしている自分がいる。

数ヶ月前に恋人から振られて、やっぱり諦められないなと思い連絡したのがここ2、3日前のことだった。

「返信くるかなー?」と淡い期待を寄せてみたものの、その相手との連絡は無常にも「既読」の二文字が表示されて以降、音沙汰なしの状態だ。

「いや、別に分かってはいたよ」と自分に言い聞かせてみるけども、やっぱり胸の奥がキュッと締め付けられる感覚が今も残る。

見る人によっては、「振られてもなお特定の人を思い続ける一途な人」と映る一方で、「ただ未練が残っている人」とも捉えられるのかもしれない。

自分で言うのもなんかむず痒いけど、僕は人と人との出会いをかなり大切にするほうだと思う。ひとことで言えば「縁」を。

例えば、「せっかく人生で交わったならこの人のことを無下にしたくない」や「一度つながった人だから、その関わりを断ち切りたくない」などといったイメージ。

日本で「縁を大切に」と言うと、出会った人との関係を細く長く密にすることが美徳になっている。

出会った人すべてと良好な関係を築ければ、誰もが幸せになり、寂しい思いをすることはないだろうなと思う。まあ実際、できるに越したことはない。

ただ、人対人である以上、考え方や物事に対する価値観は異なるから、当然、すべての縁が良縁になる可能性は限りなくゼロに等しい。

「出会う人すべてと関わり続けないといけない」と思っていた僕だけども、最近、中国語にある「縁分(グウェンシー)」という言葉を知ってから考え方が変わった。

どうやら中国では、「出会うことも離れることも縁」だと捉えているそう。「縁分」を知ってから「出会う人すべてを大切にする」という名目で、特定の人に執着していた自分がいたんだなって思えた。

と、同時に人間関係の考え方について気持ちがラクになった。

これまでの仕事やプライベートを振り返っても、切れそうな縁を無理やり結び直してお互いが消耗する機会を何度か経験した。むしろそれが正しい選択だと思っていた。

それこそ、プライベートで言えば「最近会っていないから、連絡しとかなきゃ」といった具合に。結局、この流れで遊びに出かけたとしても、微妙な距離感でどこか気持ちが通わない会話が生まれることもあった。

1日24時間、限られている時間のなかで自分も相手も色々な人と会い、生活をしていく。仕事でもプライベートでも、自分と相手が出会った頃と今とでは、価値観や大切にしたい事柄が変わることが少なくない。

だから「人と出会い関係構築を進めていく縁」と「互いが生活していく上で離れてしまう縁」のどちらもひっくるめた「縁分」という考え方を大切にしたい。

“つながる相手とはより親密に、離れる相手には執着しない”というように。

はじめのLINEの話に戻すと、その相手のトークを「非表示」にした。削除やブロックできないのは、どこか期待をする気持ちがあるから。頭ではわかっててもできない、人間臭いなって思った。



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