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道をそれた人は幸い? ―「善きサマリア人のたとえ」と死海写本断片「4Q29」―

詩編・特祷・聖書日課

2022年7月10日(日)の詩編・聖書日課
 旧約聖書:申命記30章9~14節
 詩編:119編1~8節
 使徒書:コロサイの信徒への手紙1章1~14節
 福音書:ルカによる福音書10章25~37節
下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

はじめに

 おはようございます。柳川 真太朗です。心身の不調により、7月5日まで関西にある精神科の病院に入院しておりました。現在は退院しましたが、引き続き療養生活を続けています。そのため、今月の礼拝説教(10日・17日)は、配布資料と事前収録した音声でお届けすることになりました。主治医やカウンセラーから「礼拝説教があなたにとって好きで楽しいことならやっても良いよ」と言われているので、療養中ではありますが説教担当を続けさせていただいております。ご理解くださった教会の皆さまにも感謝です。
 8月21日(説教担当予定日)には、元気な姿をお見せできるように心身を整えますので、どうぞお祈りいただけると幸いです。

神・律法に従って生きる

 さて、本日の使徒書の箇所であるコロサイ書1章10節を読んでみます。「すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。」主に従って歩む。主なる神の後ろについていく。神の姿は見えないが、その背中が見えるようなイメージを持ちながら、その“道”を真っすぐ進んでいく。そのように言い換えることができると思います。
 これは、詩編の119編で扱われているモティーフでもありました。1節、「幸せな人、道からそれず∥ 主の教えに従って歩む人 その諭しをとがなく守り∥ 心を尽くして神を求め 悪に走ることなく∥ 神の道を歩む人」(日本聖公会祈祷書869頁)
 この中で「(主の)教え」と訳されているヘブライ語の תּוֹרָה(トーラー)という語。ユダヤ教の「律法」、神によって授けられた掟・戒めのこと。トーラーという語は、旧約の中で 219回(※1) 使われています。入院中、何もすることが無かったので、実際にヘブライ語の聖書を開いて全部数えてみました。嘘です、インターネットで調べました。
 その内の1回が、この119編の1節です。更に調べてみたところ、興味深い事実が分かりました。詩編119編だけで「トーラー」という語が“25回”も出てくるのです(これはちゃんと自分の手で数えました)。その数、なんと旧約全体の10%以上です。驚くべき数字ですね。
 数字だけではありません。実際に詩編119編を読んでみると、そこには確かに、トーラー(律法)を讃える言葉が散見されます。ですので、詩編119編というのは、数字的にも内容的にも、まさに旧約聖書全体を代表する「トーラー詩編」、神の律法を賛美する詩編だと言えるわけです。
 神の掟や戒めであるトーラー(律法)に従って歩むこと。それこそが、ユダヤ人たちにとっての「生きる道」でした。その道から逸れることは「不幸」を、その道を真っすぐに進み、律法に基づいて生活することは「幸せ(幸い)」を意味するのだと詩編119編ではうたわれているのです。

※1 https://biblehub.com/hebrew/strongs_8451.htm

I LOVE TORAH

 詩編119編の詩人は、少し先の50節で「あなたの仰せはわたしの命∥ 苦しむときの支え」と大胆に神の律法を讃えています。神の律法(トーラー)の何が、古の詩人にそこまで言わしめたのでしょうか。その具体的な戒めや掟はどういうものだったのでしょうか。
 実は、この詩編の作者は「トーラー」のことを誉め讃えるばかりで、その内容に関してまでは、全く踏み込んでいないのです。律法の具体的な内容は、旧約の特に「出エジプト記」から「申命記」までの中に書かれています。119編の詩人はきっと、その内容をある程度は知っていたはず。偶像礼拝禁止や安息日の遵守など「十戒」の内容くらいは覚えていたでしょう。けれども、そのような具体的な掟や戒めに関しては触れず、一貫して「主よ、あなたの御言葉、律法は私の喜びだ。律法に従って生きることこそ私の生きる道なんだ」と最後の176節まで続けているのです。
 これは、我々が「人として……」とか「クリスチャンとして……」と言うのと似ているような気がします。それは具体的にどういうことですか?と問われたら少し答えに悩んでしまうのと同じように、この詩編の作者もまた、実は漠然としたイメージしか持っていなかったのかもしれません。でも、この詩編119編全体を読んでみますと、この詩を書いた人物の「律法」に対する“熱き思い”と共に、信仰者としてのこの人の高度な倫理観・道徳観というものを感じ取ることができるんですね。「あぁ、この詩編を作った人はきっと真面目で誠実な人だったんだろうな」と。まさに“魂のこもった力作”だと思います。「律法」に関してはまた後ほどお話します。

善きサマリア人のたとえ

 次に福音書のお話に移ります。今朝の福音書のテクストは、かの有名な(みんな大好き)「善きサマリア人のたとえ」の箇所。詩編119編では「道を逸れないこと」が奨励されていました。しかし「善きサマリア人のたとえ」には“道を逸れた人たち”が何人か登場しています。
 一人目は、見ず知らずの人を襲った「追いはぎ」、強盗です。ギリシア語の原文では複数形。つまり集団で犯行に及んだわけです。言うまでもなく彼らは人としての道を逸れてしまっています。
 二人目は「祭司」。三人目の「レビ人」もまとめてご紹介します。この人たちはどちらも、エルサレム神殿の聖職者たちでした。言うなれば、宗教の“ど真ん中”の人たちです。しかし彼らは、この時(……と言ってもこの話はフィクションなのですが)、瀕死の男を見て「道の向こう側を通って行った」(31・32節)とあります。「無視した」「通り過ぎた」等ではなく、「道の向こう側を通って行った(※2)」と書かれているところが、このお話のミソでしょう。すなわち、瀕死の男を見捨てた祭司とレビ人、彼ら聖職者たちは、文字通り「(道の向こう側を通って)道を逸れていった」のと同時に、宗教的、あるいは道徳的・倫理的にも「道を逸れてしまった」というわけです。二重の意味で「道を逸れてしまった」ということなんですね。

※2 聖書協会共同訳:「反対側を通って行った。」

“Parable of the Good Samaritan” by Samuel Nixon (1840)

道を逸れたサマリア人

 このお話には、もう一人「道を逸れた」人物が登場します。瀕死の男を助けたサマリア人です。33節には、このサマリア人は「旅をしていた」と書かれています。「旅をする(ὁδεύω/ホデウオー)」と訳されているギリシア語の言葉は、「道(ὁδός/ホドス)」という言葉に由来しています。「道を歩く」「道を行く」。そこから転じて「旅をする」と訳されているのです。
 彼がどこへ向かっていたのかは不明です。とにかく彼はどこか“目的地”に向かうためその道を歩いていた。ところが、目の前に人が倒れている。駆け寄ってみると、まだ息をしている。そこで彼は、その男を近くの宿屋へと運んで介抱してあげることにした。もしかすると、彼は来た道を引き返したのかもしれない。目的地とは全然違う方へと方向転換したのかもしれない。いずれにせよ、彼は本来の「道」から「逸れて」、瀕死の男を助けようと思ったのです。
 実はここにも“二重の意味”が隠されています。「サマリア人」と呼ばれる人々は、ユダヤ人と同じく「律法」を持っていました。また、古代のユダヤ教の文書(※3)を読んでみますと、サマリア人とユダヤ人は、しばしば食事を共にしたし、お祈りも一緒にしていたということが伝えられています。けれども、上述の文書には「彼らの祈りを注意深く聞いておくように」という警告が添えられています。サマリア人がお祈りしている時に“ユダヤ教の信仰と合わないこと”を祈るかもしれないので、サマリア人のお祈りは最後までしっかりと聞いてから「アーメン」と応答しましょうね、と。この逸話にも表されているように、サマリア人とユダヤ人との間では、同じ律法を共有し、交流もあったけれども、信仰の部分で少し考え方が異なっていたということなのです。
 ユダヤ教側から見れば、彼らサマリア人たちは異教徒というわけではない。でも全く同じ仲間かと言われればそうでもない。つまり彼らサマリア人は、ユダヤ教という枠の中のギリギリ内側に位置している存在だったのです。そのような限りなく“外側”に近い存在であるサマリア人がこの時、ユダヤ教の“超ど真ん中”の人間である祭司やレビ人に代わって瀕死の男を助けた。道を逸れるどころか、あの詩編119編の詩人が目指した「神の道」に堂々と従った。これが「善きサマリア人のたとえ」。

※3『ミシュナ』「ベラホット」8:8

口と心と“手”に

 ここでもう一度「律法」の話に戻ります。旧約の箇所である申命記30章、その11節の言葉を読んでみます。「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。」これは、神がモーセや(ユダヤ人の祖先である)イスラエルの人々に授けた「律法(トーラー)」に関する言葉です。更に14節。「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」あなたは「律法」の言葉をその口で唱えることができるし、心に留めてもいる。その程度のものなのだから、決して難しすぎたり実行不可能なものではないんですよ、と言っているわけです。これはどうも、我々が想像する厳格なユダヤ教のイメージとはちょっと違うような気がしないでしょうか。
 この申命記の箇所に関して、ヘブライ語と(イエスやパウロの時代に流通していた)ギリシア語の本文の両方を読み比べてみました。すると、ある僅かな違いに気がついたんですね。それは「御言葉は[……]あなたの口と心にある」(14節)という部分が、ギリシア語版の申命記では「御言葉は[……]あなたの口と心“と手”にある」となっていたのです。これ自体は、大発見でも何でもありません。聖書学者たちの間では、「ギリシア語に翻訳した古代の写本家が勝手に“手”という言葉を付け足したのだろう」と、さほど問題にはされてこなかったことでした。
 しかし、20世紀最大の考古学的発見とも言われる古代の聖書の写本やその断片、いわゆる「死海(※4)写本」の中に、ヘブライ語で書かれた申命記30章14節あたりの写本の断片(※5)があり、そこには「あなたの口と心“と手”」と書かれていたのです。

この断片には「4Q29(4QDeutb)」と名前が付けられている

 この発見により、我々がいま読んでいる「口と心」版と、死海写本の「口と心と手」版。どちらの申命記がより元々の本文に近いものなのか分からなくなったのです。「手」という語は後から付け加えられたのか。いや、元々あった「手」という語を意図的に削除もしくは書き落としたのかも。さぁどっちなんだ!? ……というのは、今後の聖書学・考古学の研究に期待ということになります。ただ唯一言えることがあります。それは、こういう考古学の発掘調査というのは、いつでも「手が足りない」。

※4 イスラエルとヨルダンの間に位置する塩湖のこと。
※5 https://www.deadseascrolls.org.il/explore-the-archive/image/B-368485

おわりに

 神の言葉は「口」で語ったり「心」で覚えたりするだけでは100%その役目を果たすとは言えない。「手」で(身体で)実践されてこそ、人間に与えられている最大の意味を為すものではないでしょうか。
 今回の「サマリア人のたとえ」に登場する祭司やレビ人といった、宗教“ど真ん中”の人々は、「口」や「心」でしか神の言葉を扱うことができていなかった。けれども、見知らぬ男を救助した、限りなく“外側”のサマリア人は、「口」や「心」だけでなく「手」で、神の御言葉を実践しました。
 このサマリア人は、瀕死の重傷を負った男にずっとその後も寄り添い続けたわけではありません。彼は翌日になって、宿屋の主人に「拙者、これにて御免」と言って、また自分の旅へと出ていきます。旅から帰ってきた時、その男は去った後かもしれないし、その男は結局助からなかったかもしれない。色々と気がかりなことがあったことでしょう。でも、彼は“自分”を優先するんですね。
 旅の途中、ちょっと道を逸れて瀕死の男を救助することになった。それは非常に尊い自己犠牲の精神です。でも、すべてをその人に費やすわけではない。あくまで自分の“道”が最優先。だって、自分の人生なんだもの。……そんな話を、かつてイエス・キリストは人々に語り聞かせたわけですね。それだったら、僕らにも見倣えるかもしれないなぁと思わせてくれる、そういう現実的なお話なのです。
「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。[……]御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心(あるいは『あなたの口と心と手』)にある。」(申命記30章11~14節より)
 自分のように他者を愛することができるように。また、自分のことも自分で愛してあげられるように。そして、自分のことを誰かが愛してくれていることに気づけるように。神さまのお支えを願う一人ひとりでありたいと思います。それでは、また次週。

説教音声データ

こちらからダウンロード(.mp3)できます。

日本聖公会・愛知聖ルカ教会

礼拝:毎週日曜日 午前10時30分〜正午
(実際に礼拝の中でお話を聴きたいと思われる方はぜひ上記時間に教会へ足をお運びください。お話の内容は社会情勢などに合わせて急遽変更する場合があります。)

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