風磨くんのうちわをライブに持っていくための表明

これはケンティーこと中島健人さんの幸せを願っていたら隣に特大矢印を向けられている男がいることに気が付き、最終的にやられてしまった話です。

つまりケンティーがいかに神かという話であり、ケンティーを見ていたら菊池風磨さんからは逃れられないというふまけんの話であり、ファンクラブ入会時に散々悩んだ末に「好きなアーティスト:中島健人」にしたもののグループうちわしか持てなかった人間がステージの上のアイドル・菊池風磨を見て泣くようになるまでの話です。

■ケンティーはすごいアイドルだった

私が言うまでもないことですが、ケンティーはすごいアイドルです。

ケンティーとSexy Zoneに出会う前、私のケンティーの印象はこんな感じでした。

これがテレビすらろくに見ない人間のビフォーです。Sexy Zoneのことも、もちろん名前は知っていましたが詳しくはありませんでした。

そんな人間がSexy Zoneのライブを見てSexy Zoneの泉にドボンしました。

ファンクラブ入会時、全員に魅力を感じていたからこそ散々悩んだ末に「アイドル力に敬意を表したい」という理由で「好きなアーティスト」に中島健人さんを選択しました。

ケンティーはそのまっすぐさや情熱ゆえに「この人の夢全部叶えたい」と思わせるアイドルです。ファンクラブに入ったのも「ケンティーがここまでしてるならお金を落としたいし会員数を1でも増やしたい」と思ったところが大きかったのです。

ジャニーズのグループにハマるならこれを読み返さねばと手元の『ユリイカ』(総特集=日本の男性アイドル)を読み返していたとき、ケンティーに関する言及を見つけました。

アイドルにはそもそも歌謡曲のころからあった人の作った歌をうたわされているという受動性があって、バラエティ番組もいじられるという受動性の舞台ですね。(…)そんななか、たとえばケンティーは「アイドルとはこういうものだ」とされる受動的な姿を過剰に引き受けることで、その過剰さの分だけなぜか主体的になっている、そういうモデルのように感じます。

阿久津愼太郎 足立伊織「対談――男性アイドルの論点 普通の男の子と王子様――アイドルというコンセプトをめぐって / 」、『ユリイカ』第51巻第18号、2019年10月、78頁

「あーこの主体性に惹かれているんだな」と思いました。

二次元/三次元問わず、自分で選び取ったものを背負い続けるための努力を惜しまず、選び取ったものに飲まれない人が好きです。スポットライトが当たってしまう人よりも意志を持って浴びに行く人が好きです。そしてケンティーはまさにそういう方のように見えました。

まあファンになった今では、受動的な姿の過剰な引き受けによる主体性というよりは、もうストレートに主体性に溢れた人のような気がします。

自分で曲や歌詞も書くし、自主制作MVも作るし、ブログで毎日発信する。応援していくうちに主体性の極みみたいな方だと分かります。2021年12月号の東京カレンダーで「何も発信しないアイドルの時代は終わったと思う」と話していたのも印象的でした。

かつ、その発信するものも「アイドルとはこういうものだ」「ケンティーとはこういう人だ」からずらしたものであることも多々あります。

かっこいいと思ったらかわいい、ウェットかと思ったらドライ、セクシー王子かと思ったらおてんばプリンセス。ハロウィンのブログに上げる写真がキメキメのドラキュラとかじゃなくてカボチャの着ぐるみに入ったぽやんとした姿、なんてこともありました。

最初のうちは「ケンティーの姿が多様すぎる。どれが本当のケンティーなんだ??」と思っていました。しかしそのうち全部ひっくるめて「ケンティーがやることは全部ケンティーっぽい」という気持ちになってくるから不思議です。

さらにケンティーのすごいところは、ケンティーっぽさが全部正解に見えるところです。「1000年先から君を守るために来た」と言われてもまあそうかなと思えてしまう。トンチキソング耐性の薄い自分が見てもソロコンのトンチキシングルメドレーが大正解の輝きに見える。あの真っ直ぐな目と迷いのない振る舞いによって、どんな衣装も演出も楽曲も言動も正しく感じられます。もう万物を「正」にする力がある。全部ケンティーとして正解にしてしまう強さ。それがケンティーのやり切り力であり、主体性だと感じます。

とはいえ自分勝手にやりたい放題というわけではありません。とてつもなくファン思いです。メールを送ってくれる人やJr.時代からのファンを認知しているし、ファンのSNSでの投稿やハッシュタグのトレンド入りを見守っている。ブログは毎日更新で、ファンとはハッシュタグを通じてやり取りが生まれています。オタ卒に悩むファンに「一途にこれだけ付き合ってたら、結婚してるも同然です」なんて答えるインタビューもありました。

それでいて私物の香水は教えてくれないし、「アリアナ・グランデが結婚してもファンがいますよ」というラジオのお便りに一夫多妻制かよ! 結婚できるのは一人だから」とばっさり返すこともある。もうめっちゃおもろいです。好き。

そうやってファンとの距離感をコントロールできるところにもアイドルとしての主体性を感じているのかもしれません。近くて遠くて近いアイドルですその不可侵性に「神だなあ」「Sexy Zoneの北極星だなあ」などと思ってしまいます。うーん、信仰かな??

近い存在として応援する気持ちもあり、遠い存在としてそのきらめきが消えないよう願う気持ちもあり。なにより根底にあるのはケンティーの努力が報われてニコニコ笑っていられる世界がいいなあという気持ちです。Sexy Zoneのファンクラブに入ったときも今も、ケンティーとSexy Zoneが幸せであったらいいなと思っています。

■ケンティーの隣には特大矢印を向けられている男がいた

そんなケンティーの幸せを願う中で、隣になにやら特大矢印を向けられている男がいることに気が付きます。そうです、同じグループの菊池風磨さんです。

これまで「シンメ」「センター」といった概念に触れてこなかったので、ケンティーと菊池さんがシンメだと言われてもあまりピンときませんでした。私にハマるきっかけをくれた友人から「氷河期や8.25を経て今に至っているんだ」と説明されて迂闊に足を踏み入れたらヤバそうという気配は察しました。

とはいえ過去を詳しく追わない中でも、日々のバラエティやインタビューでなんとなく「ふまけん」を感じました。結婚詐欺師扱いしたり愛おしがったり忙しい人だなあ、なんて思っていました。

ハマった初期に印象的だったのはSexy Zoneに出会って1か月ちょっとの頃、5周年のコンサート「Sexy Zone Presents Sexy Tour ~ STAGE」を見たときのこと。「キャラメルドリーム」の曲中、風磨くんの横でニコニコしているケンティーを見て、風磨くんはこんなにもケンティーを笑顔にできる人なんだと思いました。

そしてRIDE ON TIMEです。ハマった直後にROTが待っていた私、道が整備されすぎている。

グループ最年長の中島健人と菊池風磨は、2008年の同時期に入所以降、切磋琢磨してきた存在であった。歌唱披露の際もシンメトリーとなることが多く、ジャニーズJr.時代から“ふまけん”の愛称で親しまれていた。

中島は菊池への思いを「彼に関しては12年一緒にいるので、嫌いになることもあったし、好きになることもあったし、どうでもいいと思うこともあった。それでも隣にいるのはあいつだった」「今、菊池はバラエティの仕事も多くて、良い道を歩んでいるなと思う。かっこつけなくなってるところがすごく好き」と最近の菊池の活躍について語った。

一方、菊池は「中島はポイントゲッター、シューターだから上手くパスを回し、円滑にしていくのが自分の役目。それは強く思いますね」と語る。互いを認め合い、尊重し、そして共に闘っていく覚悟が二人にはあった。

概要欄より

「彼に関しては12年一緒にいるので、嫌いになることもあったし、好きになることもあったし、どうでもいいと思うこともあった。それでも隣にいるのはあいつだった」。

……え、すごい。「ずっと大好きで仲良し」とは違うタイプの重さがあります。ケンティーの「ウェブにあげる動画について電話してて」「すごく好き」と話していたのも印象的でした。

そんな風にケンティーから特大矢印を向けられている風磨くんのほうを見てみると、彼はケンティーの理解者の一人なんだなと思いました。「最年長は中島なんで」「彼のプライドもあると思うし」などROTで紡がれた言葉を聞いていると、ベタベタせずともケンティーを尊重している人なんだなと。

ケンティーを中心にSexy Zoneを応援していたとしても、というかケンティーを見ていればこそ、風磨くんの存在を無視することはできません。ケンティーが幸せであったらいいなあと思っているうちに、風磨くんにもよく目が行くようになりました。バラエティ、ドラマ、雑誌、村上くんとのイベント配信、YouTubeなど、一気に露出が増えて熱心に追わずとも目に入るくらいになったのも要因でしょう。露出量の影響は大きい。

そして風磨くんに関連するツイートがだんだん増えていきました

■特大矢印を向けられた男は夢と愛の人だった

あのケンティーがそれだけ矢印を向ける人ですからそりゃあ風磨くんもすごい人でした。

歌が上手い、パフォーマンスが魅力的、頭の回転が速い、言語化が巧み。魅力を語ればキリがありませんが、一言で言うなら「夢と愛の人」。書いていて思いましたが「夢と愛」ってケンティーの話みたいですね。でもこれは風磨くんの話です。

5周年コンサートの「STAGE」にて、ファンの歌声を聞いて嬉しそうに照れる姿を見てアイドルだなあと思いました。実際、過去のライブを追ってみると風磨くんはステージの上で夢に向かってキラキラしている人でした。周年ライブの終わりに「今日も夢に踊ります」と綴り、初めてのソロコンで「最後まで、俺が死ぬまでついてきてね」と話す。そんな夢の人でした。

そして17年のソロコンを見て、グループへの愛がある人なんだろうなと思いました。

Sexyに出会って2か月くらいの頃、ソロコンの映像を初めて通して見たとき。SixTONESの6人と風磨くんというあり得たかもしれない姿を見て、新米だった私はちょっとだけ寂しくなりもしました。風磨くんとグループのこともふまけんのこともなんとなくしか分かっておらず、だからこそ寂しくなってしまったんです。

でもソロコンの最後。デビュー曲で「空ニ、カザシタ手ノヒラ。」と歌い、5周年の節目に「回すんだよ! この手で この地球(ほし)を」と歌ったSexy Zoneの風磨くんが、最後の最後に「この地球をささえて 歌った僕ら」「もう一度 あの日に戻るとしても おなじ路選ぶだろう」と歌うんです。

きっとグループから入った人間の偏った演出解釈です。ただそこで風磨くんのこともSexy Zoneの5人のことも一層好きになりました。別にベタベタ仲良しじゃなくていいんです。仕事場としてグループを愛してくれていたら、そこに腹をくくっていてくれたら、グループを好きになった一人として嬉しく感じるのです。

前述の通り、私は「自分で選び取ったものを背負い続けるための努力を惜しまず、選び取ったものに飲まれない人」が好きです。応援する中で風磨くんもそういう人なんだなあと思いました。

たとえば「『イヤなものはイヤ』と『何でもやってやる!』の境界線は?」と聞かれたときの答え。

今、唯一"これじゃなきゃダメ"って言ってるのはライブを作るときかも。こういうライブを作りたいからこの曲をって作り方をするから。そこはイエスノーはっきりしてるね。Sexy Zoneのことは…そうなるね。

Sexy 素ナップ 第437回

Sexy Zoneとしてやっていくと腹をくくっているからこその境界線に見えました。自分がSexy Zoneのライブから入ったこともあり、やっぱり好きだと思いました。

境界線の話でいうと、風磨くんと自分は境界線の置き方が全然違う人だろうなと思います。物事に関する湿度や基準が違う。自分の輪の中に入れたら惜しみない愛を注ぐような姿勢、群れのリーダーみたいなところもあまりピンと来ません。12年アリーナコンの「ララリラ」で風磨くんは4本の指を出しますが、自分は割と薄情で仕事は仕事だと思っちゃうので、もしアイドルだとしてもそういうことはしないでしょう(どういう仮定だよ)。

つまるところ、風磨くんが自分と同質か異質かといえば間違いなく異質側の人です。

でも12年アリーナコンの「ララリラ」で4本の指を出す姿を見て、そこに拒否感があったかというとそうではなく、「風磨くんらしいな、好きだな」と思いました。自分が風磨くんに感じていた異質性はいつの間にか大きな壁ではなくなっていたようです。

今でも「風磨くんは自分と違う人だな」とは思うけれど、風磨くんは言語化や筋の通った表現の能力が高い人なので、追いかけているうちに「共感はできなくても理解はできる」「なるほど、そういう考え方もありますね」と見え方が変わっていきました。そういえば以前もそんなようなことは書いていたな。

風磨くんは愛の人なんだな。そう考えると、初心者の時期にちょっと触れづらく感じていた過去についても見つめられるようになりました。まあ勝手に他人様を解釈してその枠の中で理解しようとするのはよくないんですが……。

最近では、風磨くんのことを好きでもなんでもない人が見たらきっと気にしないことや逆に引っかかることでも「頑固~!」「照れ屋の極み~~!」と思うようになりました。そしてそこも含めて可愛いなあ、好きだなあと思うようになった今、もう一線越えたんでしょう。

もちろん信仰だろうと担当だろうと常になんでも全肯定とはいきませんが、出会ったときとは確実に何か変わったと思います。

■風磨担なのかという自問自答

ただすぐに「風磨くん好き! 風磨担になる!」とはなりませんでした。グループに担当は一人という前提に立つならば、風磨担だと自認するには「中島さんよりも好きか?」の問いにYESと言わねばなりません。

なんだか少女漫画みたいですね。正統派イケメンと不良系イケメンが出てきてヒロインが悩む構図と似ていて、逆をいく2人がいるとどうしよう〜ってなりやすいんじゃないでしょうか。ほら、ウチらって最初で最後のヒロインだから……(思い出される宮城の夏ハイ)。

この担当問題については長いこと考えました。やっぱりケンティーに幸せでいてほしいオタクですし、ふまけんがバチバチしていた時期に出会っていたらきっとケンティー派だったことでしょう。いつでも「皮」を被れる人が好きな上に自分もそのタイプなので。

実際、今も「ケンティーの望みは全部叶いたまえ!!」と思うことが多々あります。風磨くんがケンティーに対して「友達って言ってもらえるのは嬉しいし、友達っぽくもあるんだけど」(non-no 21年10月号)と話していたときは「ケンティーが! メンバーというより"友達"と言っているのに!?」と風磨くんの肩を揺さぶりたくなりました。ほんと余計なお世話ですみません。

風磨くんには風磨くんのふまけん論があるのも分かるし、そもそも友達と仕事仲間(あるいはシンメ)は違うカテゴリーだから上下はないということならめっちゃ分かります。私もそのタイプですし。そもそも基本的にメンバー同士はよき同僚であってくれたらいいな、グループがメンバーにとっていい職場だったらいいなとしか思っていないので、友達でいてほしいという気持ちは全然ありません。でもこの件に関しては「ケンティーが友達と言っているのに!?」と思ってしまうのです。ケンティーの望みは全部叶ってほしいからですね!

しかし、じゃあ逆にケンティーが担当かというとそれもしっくりこない。

たとえるならケンティーは某夢の国です。

「楽しいよね〜好き〜」で行ってる人とガチのオタクに大きな差があり、だいたいの人が好きだけど本当に好きな人はレベチ。そして自分がそのレベチな壁を越えているかというとそんなことはなく、「キャーケンティー♪」止まりなんじゃないかと。ファンクラブの好きなアーティストはケンティーですが、ライブでは20年末カウコンのグループうちわしか持てないところを見ても、レべチの壁を越えられていないなと。

ケンティーが夢の国だとして、風磨くんは、住んでいるうちによさがわかる引っ越し先です。

惹かれるものがあって選んだにせよなんとなくで選んだにせよ、住んでいるうちに気づく街の魅力や受け入れていく何かってあるじゃないですか。そして結局住んでいるのはその街。そういう感じです。

こういうことを考えているうちに「そもそも中島健人さんは担当など関係なしに万人好きなのでは。であれば私はアイドル・中島健人にキャーキャー言っている風磨担なのでは」と思い至りました。夢の国を楽しみつつも夢の国に住んでいるわけではなく、結局住むべき街に帰ってくる人間なんじゃないかと。

でもこの感情が「担当」なのか分からずにいました。そもそもジャニーズの担当文化に疎いので何をもって担当というのか分からないから。そして一番の理由がこれまで好きになった人と「好き」の成り立ちがあまりにも違ったから。

これまで好きになってきた人は第一印象から大好きで、一気に「出てくるもの全部好き」の領域まで行った人ばかり。最初から推しロードを走っていきたい気持ちだったのに対して、風磨くんは石橋を叩いて渡るかのような好きになり方をしています。

パフォーマンスやルックスでガツンと好きになるときは、最大瞬間風速の速さゆえか何の迷いもなく好きだと直感できます。でも知っていくうちに徐々に見えてくるもので好きになる場合は「結局一部しか見えてないのにそれで好きって言えんの?」と自問自答してしまうのです。

知らない話もたくさんあるし、観ていないライブ映像もあるし、集めていないシングルもある。もう見られないテレビ番組や雑誌もある。知らないことが多すぎるので「いつハマっても風磨担になっていたか?」と問いかけられると、正直分からない。

まあアイドルとファンの関係は……というか人間関係はどこまでいっても一部しか見えないので、この自問自答に終わりはありません。じゃあもうわからないままでいいじゃないか。そう思ったことも何度もあります。

でもなぜか「分かりきれないと分かっているけれど分かりたい」という気持ちが捨てきれずに、いろいろなことを書き綴ったり壁打ちを繰り返したりしました。風磨くんのことを知りたいというだけでなく、自分のこの気持ちが何なのか知りたいという変な探求心もありました。

仮に担当じゃないとして、それを「ガチ恋」で片づけたくない。だってアイドルとしての風磨くんをファンとして好きになったのだから。面白いなあとぼんやり外から見るような存在でもない。だって風磨くんの一挙手一投足や言葉ひとつに心をたくさん動かされているのだから。

なんで好きなのか。どこが好きなのか。本当に好きなのか。他の人とどう違ってどう同じなのか。日常の中でも割と探求心を抱くタイプですが、アイドルに対してここまで思ったのは風磨くんが初めてです。他の人はみんなDon't think feelで好きになっちゃってたもので。好きになり方が違うだけで、そこに優劣はありません。でも不慣れな「好き」の形なので取り扱いが難しいのは事実です。

まとまらない思考、増え行くツイート。風磨くんのことばかり話しているので「いうても風磨担じゃん」と友人に言われる日々。たしかに脳内の何割もを占めているけれども。

■担当話の行きついた先

そうやってうだうだ考え込んでいたのを吹き飛ばしていったのが今回のザ・アリーナツアー。最大瞬間風速的な直感で行きついた先は「自分は菊池風磨というアイドルに救われるんだろうな」でした。

ライブの終盤で流れる「アイドルが消えた世界」の映像で、別界隈の推しである十束おとはさんのことを思って泣きました。卒業後は就職する予定だと話していた彼女とアイドルをやめて別の仕事をしている4人の姿が重なり、「元気にしてるかなあ」と話すファンの子の姿が未来の自分と重なり、周りの人との温度差がえぐいくらい泣きました。

アイドルが消えた世界に現れた伝説のアイドル。そんな煽りで映像が終わり、号泣する私の目の前に現れたのが風磨くんでした。

そのとき思いました。ああ、アイドル・十束おとはが消えた私の世界に現れるのはアイドル・菊池風磨なんだなあと。

状況としてはただそのタイミングで近くから風磨くんが出てきただけ。うだうだ考えていた割に何の理屈もありません。当時書いたことを今読み返すと「なぜそこまで運命を感じちゃう?」と我ながら思います。

でもあの瞬間、風磨くんの姿に号泣したことで自分のうだうだが消えていきました。あそこには私だけに効くロジックがあったんです。

担当は誰か問題の行きつく先は、2通りだと思っています。ひとつは、担当は一人だと思わないという発想への転換。もうひとつは、形が違うだけで「好き」に優劣はないという自分の中での気持ちの消化

私は後者に至りました。

ケンティーという夢の国ではしゃぐ1日も楽しいし毎日行きたいとすら思う。同時に、帰ってくるのは風磨くんという街だと思う。この感情が「担当」なのかは分からないし、誰かにそうだと言ってほしいわけでもないけれど。結局「キャー!ケンティー!」と言いながら風磨くんに脳内を占拠され、なんなら勝利くんに胸を打たれたり、聡ちゃんにあったかくなったり、マリちゃんに笑顔にしてもらったりする状況に変わりはないけれど。

それでも自分の中で一つの結論が出た気がしたので、このように書き残すことにしました。

風磨くんが日々綴る「あなた」への言葉が自分にも向けられていると感じるようになった今日この頃。風磨くんの輪の中に「俺のファン」というカテゴリーがあるとしたら、自分もその中にいたいと思うようになりました。

明日は風磨くんのうちわを持って宮城に行きます。