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閉館する原美術館に居合わせた、僕の記憶の記録

光が差し込んでいる。

オーク調のブラウンの床に差し込む淡い光。窓には柔らかく茫洋とした光の痕跡と影が映っている。
夕日が暖かく空間に染み渡る。一日が終わろうとしている光。閉まりゆく原美術館を包み込む光。

音が聞こえてくる。

サンルームに置かれたアップライトピアノから、弾き手のいない「月の光」が奏でられる。空間に音が広がって、そして消えていく。
床の上を人が歩く足音が聞こえる。存在を感じる。目をつむっていても、そこには確かに人がいる。そこを人が歩いたことの痕跡が、僕の耳に入ってくる。そして消えていく。
ピアノの音、足音、窓に当たる風の音、キッチンから聞こえる器とフォークが触れる金属の音、女の人の話し声、庭から聞こえる鳥の鳴き声。耳に入ってくる色々な音たち。

それらは二度として再現されることのないもの。同じ組み合わせで、同じ瞬間に、それを経験することが二度とないもの。

「一回性の芸術」という言葉がある。美術館の2階には、宮島達夫の作品が展示されている。暗闇の中で、一列に並べられた何十ものデジタル数字が、それぞれのテンポでカウントアップをしている。それらの数字が組み合わさってできた光景を、今この瞬間の僕が目にしている。二度と繰り返されることのない、一回性の光景を目の当たりにしていると説明される。

その一回性は、「作品」に宿っているのではない。僕らが生きて、見て感じているすべてのものは、本来一回性を帯びている。一回性とは「生命」に宿るのだ。ありふれていて、繰り返されていると僕らが勝手に感じているだけで、本当は二度とない経験をしているのだ。

「ありふれた現実」があるのではなく、「ありふれた認識」があるだけ。「退屈な現実」があるのではなく、「退屈な知性」があるだけ。全てはこちら側の問題。

額縁に囲われてキャプションがついたものだけが作品なのではない。日々目にしているもの、目の前で自分が経験しているもの。風景、人との会話、見るもの聞くもの匂うもの味わうもの感じるものすべてが、一回性の芸術という意味での作品性を帯びている。本来は。

その作品性が毀損することがあるとするならば、こちら側の姿勢に問題がある。ありふれたものを見るように、どこにでもあるものを見るように。そうして世界はテンプレになってゆく。

僕らはどこにいっても写真を撮るようになった。ある瞬間をインスタントに切り取り、記録に残す。時にはきれいなカラフルなフィルターで加工してwebの海に放流する。その瞬間を忘れないように。誰かと共有するために。

でも、そこにはパラドックスがある。一回性をとっておきたいから記録するのに、記録してしまうと一回性は失われている。

美術館に掲示されていた注意書きが忘れられない。

館内での撮影はご遠慮ください。今回の展覧会「光ー呼吸 時をすくう5人」では、原美術館での時間を記録ではなく皆様の記憶に留めていただけたらと考えています。展覧会の趣旨をご理解くださり、ご協力下さいますよう、よろしくお願いいたします。

記録に残すのではなく、記憶に留めること。
記憶に留めることで、僕は、記憶を留める前の僕から変化する。
記録に残す僕は、その前後で何も変化しない。

隣に、鈴木康広さんの作品<泉>が展示されている。

コインは自分の分身です。それを投入することは自分自身が原美術館の活動に参加することー自分の投じたコインによる一滴の滴がその活動に波紋を生み、そこから新しいアートの世界が広がるのです。壁面に空いたスリットの中にコインを投入してください。

この泉に500円玉を投げ入れたことを、僕は一生忘れないだろう。

毎日を生きていく所々で、自分が今この瞬間感じていることに目を向けること。琴線に触れた何かを、触ろうとすること。それを、全ての感覚を使って味わおうとすること。その味わいを記憶すること。
チケットの要らない美術館がそこにはある。

閉まりゆく原美術館の、二度と来ることのできないであろうサンルームで。月の光を聴きながら。そんなことを考えていた。

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#Photo : Fujifilm X100F