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たった今起きたんだが、人生で初めて夢の中の夢をみた。

TENETが楽しみすぎるからか、人生で初めて夢の中の夢をみた。
その体験があまりに生々しかったので勢いに任せて書いてみることにする。

知り合いの編集者(実際の友人だ)に、どういうわけかその人の師匠と呼ばれる人の元に連れていかれ、「これから君は夢をみる」と言われる。夢の中で30日過ごして戻っておいでと。それが修行なのか治療なのか、何なのかはわからない。夢の中で過ごす1ヶ月は現実にはだいたい1日くらいだから、30日が経ったらようやく明日になっているよと言われる。

そして君は気付いてるかどうかわからないけど、実はもう君は夢の中にいるんだ、と告げられる。そして、スマホで撮った写真は夢から覚めてもそのまま残るから、どんどん撮るといいと言われる。夜の風景は、夜景だけが何十もの断片に分割され、その一つ一つの断片がぐるぐると渦を巻いている。遠近感が狂って、遠くにあるリンゴの方が近くにあるリンゴよりも大きい。そんな不思議な風景をみるたびにパシャパシャとスマホで写真を撮る。

エレベーターに乗って移動する。下の階のボタンをおす。エレベータの箱はゆっくりと下に降り始める。しかし当の僕は、自然落下しているかのような物凄い重力を全身で感じる。ジェットコースターで降る時に、内臓がヒュッとなる感覚、あれをエレベーターが4階から2階に降りるくらいの数秒間に感じ続ける。恐怖を感じて、思わず隣にいるナビゲーターに抱きついてしまう。これは夢の中ではエレベーターで下降しているが、現実ではどこかから落下しているのだな、となぜか納得する。

その後エレベータを降り、不思議な食堂のようなところにたどり着く。そこには一緒に夢をみるように指示されたヤマムラソウゴ(誰?)という友人がいる。会うのは2度目だが、名前を思い出せずに怒られる。ずっと昔からの知り合いだぞと言われて混乱する。後頭部の刈り上げがとても印象的で思わずそれを触ってしまう。

その食堂で誰かから、お腹がすいたら食べ物を食べなさいと指示をされる。夢の世界で過ごすと次第にお腹がすいてくるから、と。食べ方は簡単だ。何かを思い描いて振り返ったら、それがテーブルの上に置かれているからmそれを手にとって好きなだけ食べるとよい。しっかり食べないと30日間ここで過ごすことはできないから、しっかり食べなさいと言われる。食べ物は必ず食べるようにと執拗に指示される。

また場面が変わって、飴を渡される。ディスプレイに小学校2年生のときの風景が映し出されるから、気になったシーンで画面に向かって飴を投げつけなさいと言われる(なんで?)。言われた通りに飴を投げつけると、その投げつけた速度の倍の速さで画面から飴が投げ返されてくる。腕にかすり傷ができて、その痛さも、さっきエレベータの自然落下と同じように現実的で、ジンジンと生々しい痛みを感じる。これはきっとまた現実で怪我をしているのだなと、ここでもなぜか納得する。

気がつけばようやく1日が経ったような感覚で、あまりに長い時間に辟易する。これをあと30回も繰り返さなければならないのかと絶望する。そしてそれを30回を繰り返したときにようやく目を覚まして、それが現実の1日になっているのかと想像して、あまりの長さに気が狂いそうになる。

・・

と、恐怖に震えたときに、本当に目が覚めた。見慣れた家の天井。電球の色が天井に写り、部屋全体がうすぼんやりとした橙色になっている。夕方、強烈な眠気に襲われてベッドでうたた寝をしたのだった。眠ってから1時間くらいが経っていた。僕が「夢」と呼んでいたものは、実は夢の中の夢で、「現実」と呼んでいたものは夢だったことに気がついてぞっとする。

さっきの体験があまりの生々しくて、twitterにでも書こうとしたら思いの外内容を覚えていたので忘れないうちにnoteを開き、そのままの勢いで書いてるのが今。もっとたくさんのことを、様々体験をしたような気がするが、時間が経つほどに忘れていく。こうしてる今もどんどん忘れていっている。夢の中での体験なのか、僕が今思いついてる創作なのか、その境界が曖昧になっていく。残念ながら、スマホには写真は残っていなかった。

夢をみてる自分は、夢の中にいることがわからない。
夢の中の夢にいる自分は、これが夢であることがわかっている。

その非対称性の中で、ここ(夢の中の夢)でどれほどの時間を過ごすのか、と想像したときの恐怖が忘れられない。「30日が1日である」という、ありえないはずの「時間の等価性」を人生で初めて身体的に感じて、今まで数十年間経験して積み上げてきた時間感覚に、全く自信が持てなくなった。

起きたときには、助かったような、もっと見ていたかったような。そしてこれは本当に現実なのか、あるいはまだ夢の中にいるのか。その現実感にも、自信が持てなくなった。今もまた、どこかでハッと気付いて起き上がるような気もするし、これが僕の現実のような気もする。

映画『インセプション』の中でコブが言っていたことをふと思い出す。

・目が覚めたときに初めて夢だと気づく。
・夢の中では、「そこにどうやってきたのか」が思い出せない。
・夢の階層を降りていくほどに、時間は伸びていく。

この時間感覚と空間感覚は、僕が『インセプション』を見たことで後天的にインストールされたものなのか、あるいは人間の本性としてそういうもので、それをノーランが記述しただけなのか。改めて、僕らが経験的に習得してきた「時間感覚と空間感覚」の危うさ・不安定さに思いを馳せる。そして(インセプションに大きく影響を与えたと言われる)映画『パプリカ』で描かれていたように、夢の中で起きる非現実的な出来事だが、しかし当人たちにとってはそれが当たり前の現実感を伴って身体で経験されるという、僕らが「現実感」と呼んでいるものの危うさ・不安定さにも。

ここまで夢の中の風景を描写し、今まさに体験している現実の自分を見つめて気付いたことが2つある。

ひとつめ。夢の中の断片は、現実世界とリンクしている。スマホも、編集者も、飴も、痛みも、僕がここ数日で確かに考えたり体験したりしたことだった。それらの断片がキメラのように(夢の中の)現実として組み上げられて、物語性を付与され、想像的な身体を通して経験する。実際には体は動いていないのに、動いているかのように感じながら、キメラ的な時空間を経験する。それにどんな意味があるかはわからないが、それを僕らは「夢」と呼んでいる。

ふたつめ。初めて夢の2階層まで降りて、そこから戻ってきた時に「これが現実」と確信できた理由は、見慣れた風景が目の前にあったことももちろんあるが、「呼吸」の感覚が明らかに違っていたことがある。呼吸をするたびに、胸の内部で、夢の中で経験するのとは明らかに異なる生々しさを感じる。吸って吐いてを繰り返すたびに、空気が咽頭を通り抜ける触覚を感じ、胸郭の膨らみを感じ、酸素たっぷりの血液が駆け巡るように、全身に何かモヤモヤしたものが行き渡るような感覚を経験する。

呼吸の身体感覚こそが、僕が現実にいることの主観的な証拠だ。コブがトーテムと呼んでいたものとは少し異なるけど。この生々しさによって僕は現実を経験している。

そのうちハッと目を覚まし、今まで夢を見ていたことに気づくかもしれないので、あくまでも「今時点は」だけど。

また見れないかなあ。

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おしまい。