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24/4/7 📚『なぜ名経営者は石田梅岩に孊ぶのか』芁玄

本曞の抂芁

『なぜ名経営者は石田梅岩に孊ぶのか』
森田 健叞 著 
ディスカノァヌ・トゥ゚ンティワン、2019幎

 日本が近代化できたこずの背景には、江戞時代にすでに近代化の基盀が出来䞊がっおいたこずがある。ここでいう近代化の基盀ずは、民衆がみな、優れた劎働者であったずいうこずである。この民衆ずいう基盀により、第2次䞖界倧戊埌も、日本は瞬く間に埩興を遂げるこずができた。著者は、日本の民衆が優れた劎働者であったこずの芁因ずしお、石門心孊ずいう思想をあげた。
 石門心孊は、京郜の商人であった石田梅岩16851744が創始した孊問である。石門心孊は哲孊に近い性質をもち、人の正しい生き方を考え抜いた。さらに、元々商人であったずいう経歎を掻かし、商業、経枈や経営、瀟䌚構造などに぀いおも远及した。梅岩の思想は、瀟䌚科孊的であるず同時に、人々を勇気づけるものでもあった。梅岩の考えを孊んだ人は、道埳的に向䞊し、感情ず行為に自信をもち、人間関係を穏やかにするよう努めた。その結果、仕事の成果も、向䞊したずいう。
 ロバヌト・N・ベラヌずいう瀟䌚孊者は、『埳川時代の宗教』の䞭で、江戞䞭期に盛り䞊がった石門心孊の思想が、日本が近代化の条件を揃えるこずに貢献したず分析しおいる。同じく瀟䌚孊者のマックス・りェヌバヌは、西掋近代化の原動力、すなわち「資本䞻矩の粟神」をキリスト教におけるカルノィニズムカルノァン䞻矩であるず捉えたが、ベラヌはこれに圱響を受けたず考えられる。

自己の利益ず公共の利益

 今の䞖の䞭は、道埳よりも法埋、すなわちルヌル至䞊䞻矩が最優先されおいる。ルヌル至䞊䞻矩の問題点は、行為の刀断基準を、人間の内郚から消倱させ、刀断の根拠を明文化されたルヌルに䞞投げしおしたうこずである。
 アダム・スミスは1776幎に出版した『囜富論』にお、垂堎の参加者が自己の利益を远求した結果、最終的に瀟䌚党䜓の利益の増倧をもたらす、ずいう垂堎原理を「芋えざる手」ずいう蚀葉で説明した。しかし、しばしばこの考え方は誀解されおいる。『囜富論』はあくたで、スミスのもう䞀぀の倧著である『道埳感情論』1759幎を前提ずしたものであり、道埳に反しお自己の利益を远求しようずする人は、垂堎参加者ずしお想定されおいないのである。梅岩も1793幎の『郜鄙問答』で、「商人で道道埳を知らないものは、ただ貪るこずだけをしお家を滅がす」ず述べおいる。
 梅岩は、人間の性本性は倩ず同䞀の原理を宿したものであるず考え、孊問の圹割を、人間の珟実的な心を「性本性に戻す」こずだず捉えた。この考えの基盀にあるのは、儒孊、特に朱子孊掟で重芖された「理」ずいう考え方である。぀たり、人間の本性に基づいた行動は、䞖の䞭党䜓にずっおも良いこずずなるが、人間はしばしば珟実䞖界で本性を芋倱っおしたう。そこで、孊問の力を䜿い、本性を取り戻すこずで、自分も䞖の䞭も良い状態にしようずいうものであるず考えられる。
 スミスず梅岩の考え方の違うずころは、道埳の厳しさである。スミスは、モラリストの行為が蓄積した結果、芋えざる手によっお囜府が増倧するずしたのに察し、梅岩は人間のすべおの行為が公共の利益を远求するものでなくおはならない、ずしおいる。

梅岩の考えの柱「勀勉・倹玄・正盎」

 ベラヌの蚘述から、石門心孊の「日垞ずの同居」ずいう性質を理解するこずができる。石門心孊は、それを远求するこずで俗䞖を軜蔑し、離れるようなものではなく、日垞生掻もずもに続けおいくずいうものである。
 心孊を知った人々は、倹玄ず節玄を毎日実行し、勀勉に仕事に献身した。たた、「正盎」ずいう普遍䞻矩的䟡倀が、梅岩の思想においお、もっずも広い意味をもった。人々は、正盎が自分の身を助けるこず、逆に䞍正は、自分の身を害するものであるず知った。これらの道埳は犁欲的で、匷い克己心を必芁ずするようにみえるが、実際は人々に倧きな利益をもたらし、囜富も増倧させた。

 

倹玄

 しばしば議論を呌ぶのは、「消費」ず「倹玄」のどちらが䞖の䞭のためになるか、ずいう問題である。幌いころは、倧人に「無駄遣いをしおはいけない」ず、倹玄の心を教えられる。しかし、景気が沈んでいる䞖の䞭で、政治家や評論家は「個人消費が䜎迷しおいる」ずいう。経枈のために、消費を止めるなず蚀われおいるようである。
 さらに最近では、消費こそが幞犏であるずいう考えも蔓延しおいる。しかし、こういった消費さえ、人間の本性から逃れるこずはできない。消費の察象ずなるのは、他の誰かが認めたもの、堎所ばかりである。人間はやはり䞀人で生きおいくこずができず、共同䜓の䟡倀芳にそった消費をするこずしかできない。その消費を他瀟から認められ、私たちは喜び、安心する。
 このように、倹玄ず消費に぀いおさたざたな意芋があるが、倹玄を勧めおくるのは自分に芪しい人々であり、消費を勧めおくるのは自分ず特に芪しくない人々であるず、著者は考える。自分が本圓に愛する家族に、「経枈掻性化のために、沢山お金を䜿いなさい」ずは蚀わない。道埳的な芳点からみるず、倹玄を重芖する必芁がある。
 倹玄ずは、䟋えば、本来3぀必芁であったずころを、工倫によっお2぀に抑えるこずである。自分のためではなく、䞖の䞭のためにするものである。私欲にもずづいおはならない。お金は本来「公」のものであるが、それを䞀時的に拝借しおいる。絊料も、もずもずはお客様のお金である。いざずいう時には、公のために䜿うこずが倧切である。たた、䞖の䞭のために行う行為であるため、身分にかかわらず行うものである。
 本圓の倹玄は、単なる節玄ではなく、事物に正しく本性を発揮させ、それにより人間の本性を取り戻すこずである。䟋えば、あるものを買ったら最埌たで䜿う、再利甚する、ずいうのは倹玄に圓たる。

正盎

 梅岩は「二重の利」を匷く非難した。二重の利ずは、䟋えば、ある人に普段より長さの短い垃を代わらぬ倀段で販売し、普段よりも倧きな利益を埗ようずするなど、商品・サヌビスぞの察䟡を䜙分に倚くもらうこずで埗る利益である。二重の利は、法に觊れるこずではないかもしれないが、自分の利己的な欲心に端を発した行為であり、信頌を倱うこずに぀ながっおしたう。自分から他人を芋るず、その人の誠実・䞍誠実がわかるように、他人から芋おもたた、自分の誠実・䞍誠実は芋えおいるものなのである。

珟代に必芁な石門心孊

 珟代では、人間の本性的に倚くの人からの承認を求めおおり、それを満たす方法が消費ずなっおいる。こうしお消費は、無意識に人間の生存を巊右するほどのものずしお捉えられおいる。消費ず幞犏が結び぀いおしたうず、消費するための収入を増やすこずが人々にずっおの目暙ずなり、ルヌル至䞊䞻矩に぀ながっおしたう。消費は悪ではないものの、倹玄によっおこの行き過ぎた動きを調敎する必芁はあるずいえる。

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