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【サンプル】奇街を歩く


2022.01.16 第六回文学フリマ京都 新刊
「奇街を歩く」サンプル
 少し変わったことに遭いやすい青年の毎日を描いた短編4つを収録。



【販売場所】

*透子のBOOTH



「友塊」


「よしくんってさ、もしかして友達いないの?」
 リュックの肩ひもをぎゅっと握って覗き込んでくる幼馴染の顔を一睨みしてから、視線を逸らしてため息を吐く。朝からそんなこと言ってくるやつがいるか。爽やかな天気も台無しだ。春の温かい日差しを放つ太陽の下には、淡い色の桜が咲いている。これでは、花も色褪せてしまう。
「急になんだよ」
「大学でよしくん見たとき、いっつも一人だから。友達作り失敗したのかなって」
「友達紹介ならいらないぞ」
「そこまではお世話してやんないよ?」
 柳は大きめの下げ鞄に手を突っ込み、手に取ったそれをこちらに差し出す。紺に白の水玉の入ったランチバッグを受け取ると、「今日の卵焼きはどっちだと思う?」と、頬にえくぼを作る。てきとうに醤油と答えると、「私も知らないんだよね」と、前を向く。だったらなんで聞いたんだよ、と心の中で突っ込みながら、「ありがとう」と伝える。話を詳しく聞くと、卵焼きを作ろうとしたが焦げてしまったので、柳の母が作った卵焼きを拝借して詰めたらしい。母親の作る卵焼きの味が分からないものだろうかと思ったが、納得のいく答えが返ってくる気がしないので聞くのは止めた。
 今日の星座占い一位だったんだけどなあ、と零す柳は両手を後頭部で重ねる。
「よしくんならもっと上手に大学に馴染めると思ったんだけどね。ていうか、そんな心配してなかった」
「余計なお世話だ。大学生活をどう送ろうと俺の勝手だろ」
「せっかくの大学生活なんだから、大学生じゃないとできないこととかしたくない? みんなが大学に行けるわけじゃないんだから」
「まだ入学したてで、慣れたような口ぶりだな」
「よしくんよりは大学生してると思うよ。友達とお花見したし、サークルでご飯食べもした。あ、ねえ聞いてよ、サークルにさ、かっこいい先輩がいたんだ」
 ころっと話を変えて花を咲かせる柳の話を聞きながら学校に向かう道は、小学生の頃から歩いている。ランドセルの鈴を鳴らして、革のスクールバッグを背負って歩いた道。隣を歩く人物も変わらないのだから、新生活という実感がないのは事実だ。
 電車に二十分乗って、徒歩十分。登校にかかる時間はむしろ減っている。その間も柳は休めることなく口を動かし続け、俺は顔も知らない誰かの話を聞いていた。これも変わらない。
「年上の人ってやっぱりカッコよく見えちゃうんだよね、なんでだと思う?」
「俺に聞かれても」
「男の子はやっぱり、年下の方が可愛いと思う?」
「年齢というより見た目の問題じゃないか? 小さければ可愛く見える気がする」
「私、よしくんより小さいけどどう?」
 ちらりと見て、頭から足先まで視線を落とす。「可愛いんじゃない」「あんまり嬉しくないなあ」
 流れるように消えていく会話に生産性があるのかと言われればないような気がするが、これまで生産性のある会話なんてしてこなかったので、俺たちはこれが正解なんだと思う。
「そうだ、今度ね、そのテニスサークルの先輩が主催で合コンを開くんだって。よしくんも来ない?」
「行かない」「行くよね」「行かない」「行こうよ」「行かない」「行こうね」「行かない」
 先に噛んだのは柳だった。柳は不服そうに唇を噛んで俺を睨みつけるが、見向きもしないでやった。
「そんな顔したら可愛い顔も台無しだな」
 そう言って先を行こうとした時、何かにぶつかり、とんと体が跳ね返された。慌ててそちらに顔を向けると、派手な色の髪を揺らした女がこちらをみていた。手に握られた潰れたクレープよりも、明るい色のネイルに目が行ってしまう、凶器のようだ。
「あ、ごめーん」
 軽い言葉が頭を回ったのち、視線を下ろすと右肩が白くなっているのが目に入った。潰れた彼女のクレープを見るに、ぶつかった拍子に付いてしまったようだ。女はティッシュだけ渡してくると、講義遅れるからごめんね、と手刀を切って去って行った。講義に遅れるのは俺も一緒だと思いつつ、貰ったティッシュでクリームを取り除く。跡は残っていなかったので、このままでも問題はなさそうだ。
「講義中に甘い匂いがしちゃうんじゃないの?」
「柳ではないから講義中にお腹が鳴ったりはしない」
「さすがに我慢するよ」
 近づいて動物のように鼻をひくつかせた柳だったが、匂いもなんにもしないや、とすぐに離れてしまう。期待外れだと言わんばかりの反応だ。柳から近付いてきたくせに、と思ったところで別に俺は何も悪くないことに気づく。文句を言うのならば、ぶつかってきた女性にもっと強くぶつかって、と言うべきだ。それはそれで俺が困るのだが。
 柳が受ける講義室まで送っていくと、手を振る女子が近づいてきた。
 じゃあな、と手を振ると、柳は軽く手を上げ、「またお弁当の感想ちょうだいね」と言う。背中から聞こえる言葉には耳に傾けず、別棟三階へ向かう。
 講義室に着いたのは開始一分前だった。受ける生徒は全員着席し、話し声のしない講義室内は空気が凍っているようにも感じた。
 空いている席を探そうと顔を動かしていると、「こっちこっち」と、声を掛けられる。最後列に座る貴志が手を振っていた。叩く机に腰を落とすと、つい先ほど俺が入ってきた扉から教授が入ってくる。
 貴志とあいさつを交わしてからテキストを机に置く。
「ぎりぎりじゃん、珍しいな。いっつも俺よりも早く来てるのに。講義室にいなかったから間違えたかと思った」
「家を出る時間はいつもと同じだから、俺もちょっと焦った。電車も遅れてなかったしな」
 ここまでの道のりを思い返してみるが、時間を大きく食われるような出来事は無かった。十分前には着くようにしていたが、もう少し余裕を持つ必要がありそうだ。
 教授の講義が始まり、辺りはしんとしている。誰もが首を上下させるこの講義は、面白くないことで有名だった。そう教えてくれた隣の貴志もいつもの如く、首をがっくり落として微動だにしない。そうやっていつも首が痛い肩が張るとぼやいている。いっそのこと机に伏せてしまえば楽なのに、「それは俺のポリシーが許さない」と、効果音が出てきそうな決め顔で言ってきたことを思い出す。お前のポリシーなど知らないし聞いたこともない。
 最後列だというのに、前が見やすくなる時間。
 大半の人が眠たいと言うのは、教授の話し方が問題だろう。眠気を誘うような柔らかい話し方に、田舎に住む祖父を思い出させるような懐かしい声色。久しぶりに帰省してゆっくりしてしまいがちの安心感が、あの教授からは醸し出ている。小学生の頃に亡くなった祖父はもう少し体が大きくて、よく膝に座って話を聞いていた。それを思い出して、俺は逆に眠れなかった。もう二度と会うことのできない祖父を感じられる、数少ないうちの一つだから。
 それに、講義の内容自体も面白くないものではない。専攻している者として知っておくべき出来事や考え、思考を知ることができるこの講義の時間を無駄にして、試験に落ちた人が多くいると、別の教授から聞いた。
 隣で眠る貴志もいつか彼らと同じになるのだろうか。肩を叩いてみるが、起きる気配はない。開かれたノートにはよだれが点々と落ちている。
 こりゃ駄目だな、と再度視線を教授に向ける。そこでふと、視線を感じて中央から右へ顔を動かすと、こちらをじっと見ている男と目が合った。最前列に近い席に座る男は後ろを向くこともはばからず、顔をしっかりこちらに向けている。
 他に彼を見ているものはいない、俺を見ていることは確かなのだが、その顔に覚えはない。
長すぎず短すぎない黒い髪に、首元まで止められた白いワイシャツ、その上に紺色のカーディガンを羽織っている。口元に髭があれば大分印象は変わるかもしれないが、今はマスクをしているので真実は分からない。しかし、きっと髭も綺麗に処理しているのではないだろうか。いや、もしかしたら髭が生えにくい体質かもしれない。処理せずとも綺麗な顔のラインを容易に想像できた。
 至って真面目で清潔感のある大学生、といった印象だが、見覚えがあるかと言われればそれは別の話。話したことはもちろんなく、見かけた覚えもない人物だ。
誰とも検討が付かず小さく首を傾げると、男はゆっくりと視線を教授に向け、そのままペンを走らせる。それから、男がこちらを向くことは無かった。



「風説」


 部屋の奥から、叫び声が聞こえた。まるで、今まで見たことの無い歪んだ化け物を見たかのような声だ。
 声の主は、俺たちより先に入った者だ。その声は、聞いただけで腕に恐怖が走る。カーディガンでも来てくれば良かったかな。
 声に反応するように、こちらでも得たいの知れない、顔中火傷の人間かも分からないものが物陰から出てきた。びくぅっ、と肩が飛んでいってしまうのではという程上がる。こんなものがうじゃうじゃ出てくる病院を懐中電灯一つで一周するなんて、誰が思い付いたのだろう。
 再び、奥から悲鳴が響いてきた。余韻が更に足を止めさせようとする。だが、まだ半分も来ていないのに止まってなんていられない。早くに終わらせて、次のアトラクションに向かおう。
「……ねぇ、よしくん」
 後ろから声が聞こえた。俺の裾を引っ張って歩く柳せなだ。何度も引っ張るなと言っても裾を引っ張る。怖いんだったらお化け屋敷なんて入らなければ良いのに、「お化け屋敷は遊園地に来たときの定番でしょ!」と言うのだ。それに毎回巻き込まれる俺の気持ちにもなってほしい。人間が仕掛けたものだと分かっていても、いつどこから出てくるか分からない何かに怯えるのは好きじゃない。
「何?」
「あそこにさ、出口が見える」
 柳が指した方を見ると、そこには確かに出口があった。だが、それはお化け屋敷を全て回ったことを意味する物ではなく、まだ途中であることを意味していることは明らかである。扉の上の蛍光板には、非常口、と書かれていた。ここに入る前、お化けのコスプレをした女の店員の言葉を思い出す。
「お二人様ですね、ありがとうございます。では、こちらの懐中電灯を持ってお進みください。暗くなっておりますので、足元には十分ご注意を。途中、非常口がありますが、そちらはリタイア口となっております。それでは、人間を恨むお化けたちの元へ、いってらっしゃーい」
 後から振り返ると、店員は手をぶら下げて、恨めしや、と妖しい笑顔で言っていた。柳には、言うと怖がると思って言わないでおいた。
 去年来たときにはなかったリタイア口の設置は、ここに入るのをためらいたくなる原因としては十分である。リタイアしたくなるほど、怖くなったということであろう。
「うん、出口だね」
 そう答えておいた。俺が気持ちを読み取ってくれないことを気付いた柳は、それ以上何も言わなかった。
 
 突然話を振られて、何を話して良いのか分からなかったので、ついこんな話をしてしまった。起承転結の無い、平淡で、何気ない話。
「で? 結局リタイアしたのかよ?」
 隣で生ビールを持つ友人が問うた。
「してない。ちゃんと出口から出た。柳は怖がりだけど、根性はある」
 目の前の女性がいれてくれたサラダを頬張る。ドレッシングはあまり好みではないが、せっかくいれてもらったのだから食べきることにする。
 友人に誘われて初めて来てみたが、話すのが少々苦手な俺にとって、この場はあまり合わない。同人数の男女が集まり、食事をしたり会話をしたりする、いわゆる合コン、というやつに来ているのだが、始まって今まで殆ど言葉を発していない。友人に振られていなければ、きっと見知らぬ女性たちは俺の声を知らないまま帰宅することになっただろう。感謝すべきなのかどうなのやら。
「芳樹くん、その子のこと好きだったの?」



「猫鬼」


 いつもは持たない大きめの封筒を濡らしてしまわないように、それを強く抱きしめる。ぽつぽつと降り始めた雨をしのぐ傘を持ってこなかったのは、誤算だった。降水確率は半分もなかったので、必要ないだろうと思ってしまったのだ。
 徐々に強くなってくる雨で封筒の中身が無残な姿になってしまう前に、家に帰らないと。そう思い歩を進めるが、進めれば進めるほど雨が強く打ち付けているように感じる。どちらの方が濡れずに済むのだろうか、そんなことを考えるが、どちらも一緒な気がしてきた。
 いつもは隣にせなちゃんがいる帰り道。しかし今日は、隣を見ても誰もいない。
 馬鹿は風邪をひかない、なんて言葉は嘘だったようだ。もしそうなら、せなちゃんは今隣にいるはずだから。
 風邪をひいて休むなんて、いつも元気なせなちゃんらしくないと思った。だから、本当はただ学校に行きたくないだけで、部屋の布団にもぐりこんでいるんじゃないかと考えていた。でも、せなちゃんのお母さんからその話を聞いた後、二階に目を向けると、額に熱さまシートを貼った彼女と目が合った。少しぼんやりとした目が弧を描いて、僕に微笑みかけてくる。ひらひらと振られた手は、力無いように見えた。
 両手を上げて大きく手を振る彼女を想像していたので、少しどきりとした。今も思い出せば、心臓に触れられたようにびくりと跳ねるのだ。
 まとめられた手紙や宿題の入った封筒は、少し重い。せなちゃん宛てにみんなが書いた手紙も入っているからだ。これを濡らしてしまえば、目を滲ませて僕を見るせなちゃんが簡単に想像できた。
 封筒を服の下に隠して、急いで家に帰る。見上げれば、どんよりと暗い空が広がっていた。
 ランドセルをいつもの場所に置き、冷蔵庫からアイスを持っていく。せなちゃんが好きなチョコ味のアイスは、いつも冷蔵庫に入っている。
 傘もささずに家を出て、隣の家のインターホンを押す。せなちゃんのお母さんはまだお仕事で帰って来ていないのだろう。誰も出てこない。
 ポストの上に置かれたウサギの飾り物。陶器で作られたそれは、落とすと大きな音を立てて割れてしまうようなもの。その証拠に、小さいころに落として割れたウサギの頭は、ただ乗せてあるだけだ。それを持ち上げて、せなちゃんが隠している家の鍵を使って中に入る。
「せなちゃーん」
 目の前の階段に向かって声を掛けるが、返事はない。寝ているのだろうかと首を傾げたのち、二階へと足を進める。
プレートが掛けられた扉をノックする。
「せなちゃん」
 返事はない。扉に耳をすませてみるが、少しの物音も聞こえない。音を立てないようにゆっくりと戸を開ければ、真っ先に対角の膨らんだベッドが目に入った。赤のチェック柄の布団カバーは微動だにしないが、そこにせなちゃんがいることは明らかだ。
「せなちゃん」
 呼びかけるが返事はない。
「入るよ」
 扉を開けて中に入る。女の子らしい色で揃えられた家具は、せなちゃんのお母さんの趣味だと聞いたことがある。部屋の隅で鎮座している大きなぬいぐるみも、一目惚れしたのはせなちゃんではない。
 一歩進むたびに、部屋の匂いが鼻腔を突く。その間もせなちゃんが起きることは無かった。
 ベッドのそばに置かれた机には、清涼飲料水とぬるくなった使用済みの熱さまシートがあり、コップには水滴が浮いていた。中途半端に片づけられた体温計は、エラーを起こしている。
「せなちゃん、せなちゃん」
 布団の上から数回叩けば、布団の下のせなちゃんがゆっくりと動いた。彼女の唸り声、なんて珍しいものが聞こえる。寝起きの良いせなちゃんから、そんなものを聞くことなんて滅多にないから、風邪を引くとやはり参ってしまうのだと感じた。
「……お母さん?」
「違うよ、芳樹」
「……よしくん?」
 徐々に大きくなっていく布団の下から、ひょこりと頭が出てくる。くるまっていたせいで乱れた髪も、いつもは見られない。眠気眼をこする姿だって、頭に生えた猫耳だって、それを彼女が普段見せることなんてない。
 見せることなんてない、いや、見えることなんてないはず。
 犬が首を振って毛並みを整えるように、頭に生えたそれを二回ほど跳ねさせると、こちらに目を向ける。猫とは正反対に垂れた目尻は、まだせなちゃんが覚醒していないことを告げていた。
 目が合うと彼女は、力が抜けたような笑みを浮かべる。
「おはよう、もう学校終わったの?」
 とろけるような言葉を発して、据わっていないように首を左右に揺らしている彼女よりも、その頭に付いた耳に目が行く。
 珍しいどころの話ではない。
「……それ、どうしたの?」
 まだ眠たそうな彼女に問えば、落ちてしまうのではないかと思うほど首を傾けて見せた。
「それって?」
「頭の、それ」
 ふらふらとしたままの頭に手を乗せれば、生えた耳が柔らかく曲がる。本来あるはずのそれにさらに首を傾け、「なにこれ?」と、徐々に彼女の目がしっかりとしてくる。いつもの彼女だ。
「……なに? これ」
「耳、かな。猫の」



「芳夏」


 背後から聞こえる蝉の声も、仏壇の襖を開ければどこか遠くに聞こえた。地面に反射した熱が背中を刺すが、凍るように冷たい。
「ああ」
 言葉にならない声を発した人物は、仏壇に供えられた祖父母の写真から、こちらに視線を向ける。正座していた足を崩し、見慣れた笑顔で僕を見た。
「おかえり、芳樹」
 しわだらけのその顔は、仏壇に置かれた祖父の写真そのものだった。
 日が直接入らない薄暗い室内においても、部屋にいるのは祖父と分かった。目を凝らしてみても、見間違っているわけはなく、身に着けていた流しには覚えがあり、額には小さい頃に付いたという傷跡が付いている。
 小学生の僕にでも、死んだ人が戻ってくることは無いと分かっている。だから、真っ先に出てきたのは幽霊や呪いの類で、会話をすればそれに掛かってしまうと思って返事ができなかった。
 立ち尽くしたままの僕に祖父は、
「おばあちゃんに線香をあげに来てくれたのかい。おいで」
と、手招きをした。似たような言葉を、祖母も口にしていたことを思い出す。帰省して一番に仏壇に部屋に行くと必ず祖母がいて、祖父の写真に手を合わせていた。
 ──よっちゃん、おじいちゃんに線香あげに来てくれたん?
 ぽんぽんと座布団を叩く祖母に駆け寄り、同じように正座をする。作法も分からない僕はとりあえず木魚を満足するまで叩き、それから手を合わせた。前は庭でキャッチボールをしたり近くの川へ遊びに行ったりしていたが、祖父が亡くなってからはめっきり無くなった。
 さきほどまで祖父に感じていた恐怖に似た感情は、祖母の面影と混ざって消えてしまった。
 僕は小さく頷いてから、仏壇の部屋に入った。ひんやりと冷たい空気が肌を撫でるが、この部屋にはエアコンどころか扇風機も置いてない。
 祖父の隣に座ろうとすると、ぽんぽんと膝を叩いていた。
「僕、もう重たいよ」
「大丈夫」
 そう言う祖父を断り切れず、ゆっくりと膝にお尻を付ける。ちゃんと座ることができて良かったと安心したのも束の間、祖父の膝と僕のお尻の間に生まれたのは熱ではなかった。冷たかったのだ。冬であれば座っていられなかっただろう。祖父の顔を見れば、静かに目を瞑って手を合わせていた。しわも、まつ毛の長さも、眉毛が無いのも、最後に見た祖父そのものだ。肌には油が浮いていて、鼻の近くにあるイボから一本毛が生えている。
 木魚を二回叩き、僕も手を合わせた。しかし、祖母のことよりも祖父のことで頭がいっぱいで、何も伝えることができなかった。
 ゆっくりと目を開けて、息を吸う。
脳をぐるぐると回る疑問を口にする。
「おじいちゃん、なんでここにいるの?」
 開け放たれた戸から吹き込んだ風で、線香の煙が揺らめく。鳴き喚くセミの音に祖父の声が掻き消されてしまわないよう耳を澄ませる。
微動だにしなかった祖父が動いたのは、少し後だった。その間、聞いてはいけないことだっただろうかと大きく動く心臓を必死に抑えながらその時を待っていたのだ。首筋を流れた汗は冷や汗に近かったかもしれない。
「忘れ物をしたんだ」
その声に、僕を咎めるような雰囲気は無かった。優しい声は僕の肩の荷を下ろさせ、いつの間にか握りしめていた手を緩めた。涼しい部屋にも関わらず手汗をかいている。
「おじいちゃんがいること、他の人には内緒にしておくれ」
 頭に乗った手が髪を梳くように撫でる。祖母も同じような撫で方をしていた。
 僕は小さく頷いた、その意味は分からないまま。もしかしたら心のどこかに、口外すれば呪われてしまう、なんていう疑念が残っているのかもしれない。ここにいるのが本当に祖父であるかも定かではない今、それに逆らうことは身を危険にさらすことになる気がしてしまう。




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