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【サンプル】Noise


2024.03.10 そこの路地入ったとこ文庫 委託作品
「Noise」
 
同居している秋華から聞こえてくる音がある。 それが聞こえると同時に秋華に現れる、刺すような鋭い瞳。 そんな瞳で梢江を見つめる秋華に怯えながらも、その原因を追究することができないでいた。 サークルに所属したことをきっかけに、梢江は放置していた音と向き合うことになる。微百合。



【販売場所】

*透子のBOOTH



【サンプル】


 ヒビが入っていくような、空気の亀裂のような、ぴきぴきと近づいてくる音が、アキレス腱が切れた時に似た音に変わった後は、そういうものが見えた。それは超能力でもなんでもなく、起こるのは決まって秋華の前だけで、はっと視線を向ければ、青味の混じった秋華の瞳がじっと梢江を見ている。
 ──あれ、私いま、何言ったっけ。
 これまでの会話を忘れてしまい、秋華を見たまま言葉が出てこない。何見てるのと言われないようにできるだけ自然に目を逸らそうと思ったところで、秋華は瞳を隠して柔和に笑んだ。
「確かそこって、梢江が気になるって言ってたところだよね」
 先ほどの空気は霧のように消え、辺りには変わらない光景が広がっている。広げたサンドイッチは今朝秋華と一緒に作ったものだ。いい天気だからピクニックに行くみたいだね、とうきうき気分の秋華だったが、向かう先はいつもと同じ大学だった。ゆで卵とマヨネーズを混ぜて挟んだ卵サンドと、ハムとレタスとチーズを挟んだハムチータスサンド。秋華が言った名前は二人の間に定着していた。
 秋華はハムチータスサンドを一口頬張ると、口についたマヨネーズをすくいとる。
 ──そうだ、サークルの人たちとご飯に行った話。
「そうそう、偶然だったの。先輩が常連みたいで。サークルではあそこに行くことが多いみたい」
 そう返事をしてから、コーヒーを流し込む。まだ寒さの残る風に吹かれ、コーヒーは冷えてしまっていた。カップを両手で包んでも、冷えた指先を温めることは出来ない。
「たしか学生がよく来るって書いてあったよね。大学から近いけど穴場だって。たしか、学割もあるんだっけ」
「学生証を見せたら二百円引き。ワンコイン出したらお釣りが出るの」
「それ大きいね」
 大学に入る前、街をふらついた時に見かけたカフェを覗くと、芳しい木の匂いが溢れていそうな店内が広がっていた。一目見て気になったが予定が迫っていたため、店の名前を覚えるだけに留まったのだ。
 まさかこんな形で行けるなんて、とカップを机に置く梢江。
「先輩もいい人たちばかりで良かったよ。秋華もサークルに入れば良いのに」
「来月もシフト結構入ってるからなー」
「いつでも募集してるみたいだから、きっと歓迎してくれるよ。人数も十人くらいだから、秋華ならすぐに仲良くなれると思う」
 高校の時から友達の多かった秋華を思い出す。廊下を歩く度に誰かに話しかけていた秋華は、隣を歩いていた梢江には距離の近いアイドルのようにも見えた。
 大学に入ってから明るい茶色に染めると、秋華はアイドルから大学生へと変身した。
「梢江も最近入ったばかりだもんね、それもありか」
「そうだよ、気持ちはまだ一年生」
「すぐ就活の時期になるよ」
「うわ、聞きたくない」
 わざとらしく顔を歪ませて両耳を塞ぐ梢江を見て、秋華は口を開けて無邪気に笑った。今のうちに笑っておかないと、一年後には笑っていられなくなる。まだ将来の話なんてしたくないねと朝まで過ごした日のことを、秋華は思い出していた。
 昼からの講義は無いため、昼食を終えた梢江は帰路に着く。秋華はこの後バイトがあるため、校門前で別れた。ひらひらと揺れる指には整えられた楕円形の爪が煌めている。
 秋華を見送り、じわりとインクが滲むように、秋華の青を思い出す。
名簿が前後で席が近かったこともあり、自然と一緒に居ることが多くなった。誰とも隔てなく接する秋華、名簿が前後でなければ、今もこうして一緒に居ることは無かったのかもしれない。
 ──サークルの先輩と一緒にカフェに行ったの。
 それが見える前に言った言葉を思い出す。分かりやすいようにとスマホで店内の写真を見せたときに、空気が鳴いたのだ。その写真は、一年前にも秋華に見せたことがあったはずだ。
「このお店、気になってるの」
「へえ、木の感じがいいね。今度行ってみようよ」
 初めての上京で気分が高ぶっていたため、行きたい場所がどんどんと浮かんできた。これだけあったら全部は行けないかもね、と笑い合っていたのが一年前。勉強やバイトに追われ、行きたい場所リストの行方はもう分からなくなってしまった。
 しょうがないよね、お互い、忙しいし。
 夜には同じ部屋に帰るのだから、どこかに行けなくとも同じ時間を過ごすことは出来る。唯一落ち着ける場所で、ただ、空気が鳴かないように気を付けるだけ。
 空気が鳴いた瞬間、梢江の体は強張る。まるで体の奥の奥を覗かれているような居心地の悪さに襲われるのだ。そのたびに機嫌を損ねてしまったかと自分の言葉を思い出すが、どれも何気ない会話ばかり。高校生から続くこの現象の名前は、分かっていない。


 実家から届いた段ボールには、玉ねぎやじゃがいもなど畑で採れた野菜や、レトルトカレーや缶詰などが詰め込まれていた。前回届いた分が、半分以上を残してまだ眠っている。
 二人暮らしだからたくさんあった方が良いよね、と言って一カ月に一回仕送りを送ってくれる母には頭が上がらない。中身を確認した後、母にメッセージを送る。
『お母さん、仕送り届いたよ! ありがとう』
 可愛いスタンプも一緒に送ると、すぐに既読が付いた。どういたしまして、と簡素な返信。前回のメッセージも同じ言葉だった。必要最低限の会話しかしない梢江と母のトーク画面は、スクロールすればすぐに一年前まで遡れてしまう。
 余るほど届いた野菜たちの保管方法を調べようとスマホを開いたとき、秋華からのメッセージが上部から下りてくる。
『今から帰るー』
 バイト先から出た秋華は、いつもメッセージを送ってくる。了解とスタンプを送り、用意しておいた鍋に火を入れる。最近は少し暖かくなってきたため鍋の季節はゆるゆると終わっていくが、冷凍庫にある白菜がもう少し減らないことには、しばらく鍋は続きそうだ。鍋に入れるだろうと思って食べやすい大きさにカットしたのが仇となり、秋華所望のミルフィーユ鍋は来年になりそうだ。
 秋華の帰りを待つ家で、机の上や部屋を片付ける。二人とも物欲が人より少ないため部屋がものでごった返すことなく、片づけに手を煩わせることは無かった。クリーナーをカーペットに転がして、埃や髪の毛を取り除く。いくら掃除しても、髪の毛だけはどうしようもなく落ちてしまう。
「ただいまー」
 扉の開く音がした後、秋華のはっきりとした声が聞こえてくる。バイトの制服の上に上着一枚。着替えるのが面倒だからとそのままの格好で帰ってきた秋華を見て、
「先にお風呂入る?」
と、声を掛ける。秋華は温まった鍋に視線を向けると、「ううん、先食べる。着替えてくる」と言って部屋に入って行った。
 こういう時に空気は鳴かない、と。一つ一つ確かめるようにして、記憶していく。
 温めた鍋を机に運んだと同時に秋華が戻ってきた。いただきます、と手を揃えてから食事を始める。鍋には白菜の他に、鶏肉や肉団子、きのこ、ウインナーなど冷蔵庫に少しだけ余っていた食材を突っ込んだ。
「今日は具材たっぷりだね。仕送り届いたの?」
「うん、今日届いた。でもここに入ってるのは冷蔵庫のあまり物。週末が近いから中身片づけておこうと思って」
「そっか、もう休みか」
 そう言って秋華はスマホを確認する。月の半分以上がシフトの文字で埋まったカレンダー。今週の土日にもその文字は刻まれている。
「梢江は休み何かするの?」
「特に何も決めてない。買い物と、洗濯かな? 晴れるみたいから、布団干そうかな。秋華のも干して良い?」
「お願い。朝には出しとくね」
 お互いの予定が分かるようにと共有カレンダーを作ったけれど、数カ月で使わなくなってしまった。バイトのシフトも口頭か、当日にメッセージで伝えるのみ。共有できるのは便利だけど、ちゃんと相手に伝えた方が会話も減らないし、一方通行で無いと確認ができるため安心感が違う。
 あと三年は一緒に暮らすのだ、荒れ事は起こしたくなかった。会話をすればその分空気が鳴くリスクはあるが、だからと言って話さないという選択肢が梢江には無かった。会話が無くなれば、この場所が居心地の悪い場所になってしまうそうだから。
「サークルはどんな感じ? 毎日あるの?」
 鍋に浮いてきた肉団子を掴みながら言う。纏わりついていた白菜も一緒に口に放り込む。当然の如く熱そうに口から熱を吐き出している。息は白い。
 空になっていたコップにお茶を注ぎながら、「次はね、明日だよ」と返事をする。
「今日は急に来られない人が増えて、無くなったんだ」
 コップにお茶を注ぐ音とは、別の音が聞こえる。こぽこぽという音に掻き消されそうだった音は徐々に大きくなって、梢江に近づいてくる。──まずい。
 傾けていたお茶から音が止まる。顔をあげると、青色交じりの瞳が、じっと梢江を見ていた。猫のように瞳孔を細くさせ、獲物を狙う野生の動物のように鋭い。
 ──なにが、いけなかったのだろうか。
 この時間はいつも長くは続かない。それだけが幸いだった。秋華は何事もなかったかのように口を開く。
「確か十人くらいだったよね。バイトしている人もいたりするの?」
「……いるよ。バイトがあるからたまにしか顔を出さない人とか。今日は特別講義が入ったから休みの人が多かったの」
 できるだけ、普通を装って。何が秋華に引っかかったのかは分からないが、今は穏やかな時間を保たなければならない。
「そうなんだ、じゃあ、私が入っても何も言われなさそうだね」
「基本緩いサークルみたいだから、その辺りは大目に見てもらえるよ。この間、今日は気分じゃないんでって言って来なかった先輩もいるくらいだから」
「それって先輩だから許されてるんじゃないの?」
「あ、それはそうかもしれないね」
 そう返事をすると、秋華は苦笑いに近い笑みを浮かべた。けれど先ほどの瞳からは想像をもつかないほど優しい表情だった。大きく脈打つ心臓で荒れる呼吸がバレないように、おおきく、ゆっくり、息を吸う。
 食事を終えると秋華は風呂へと向かった。その間に鍋や皿を洗う梢江は、明日の夕飯を何にしようかと考えつつ、秋華の瞳が忘れられなかった。
 ロシア人の祖父からの遺伝で青味がかった瞳を持つ秋華から感じる、あの空気が鳴く現象には、高校生の時から気づいていた。始めは勘違いかと思っていたが、それが起こるたびに秋華の瞳が鋭くなっていることに気づいてからは、音に敏感に反応するようになった。
 長年一緒に居る中で、それは決まって梢江がなにかを言った後であることに気づいた。ぴきぴきと何かが近づいてきて、破裂するような音、顔をあげれば秋華が梢江を見ている。現象の流れは毎回同じだった。
 洗い終えた食器を逆さに置き、シンクを軽く洗って片づけは終わり。けれど梢江の心には何かが引っかかって、すっきりしないままだった。固く絞った布巾を持って机の前に膝をつく。さほど汚れていない机に何度も布巾を滑らせるが、ここで見た秋華の瞳を何度も思い出してしまい悪循環だった。これまで数え切れないほど見てきたのに、慣れることは無い。そうなってしまう原因が分からない以上、梢江は心にわだかまりを抱え続けることになるのだ。いつかわだかまり自体を受け入れて気にならなくなる時期が来るかもしれない、そう思って始めた同居からもう一年が経った。
 一緒に居れば秋華の気持ちを理解することが出来るかもしれないと思っていた自分が、いかに浅はかな考えをしていたかを思い知らされる。まだ一年しか経っていないが、梢江と秋華は高校卒業時からの関係値は以上でも以下でもない、あの頃と何ら変わっていない。あの瞳がある限り、梢江と秋華の距離は縮まらないのだろう。喧嘩をしたわけでも相性が悪いわけでもない、むしろ波長の合う二人だが、青い瞳がそれを阻害している。
 わずかに残る段差を越えられないでいる。つま先が引っかかり、何度も転びそうになりながら、秋華の声に頷くばかり。それが遠くなることは無いが、近づくこともなかった。
 濡れた髪をタオルで拭きながら風呂から上がった秋華は、化粧を落としてもあまり変わらない。そう言うとせっかく化粧を頑張ったのに、という批判が飛んでくることがあるが、むしろ逆で、秋華はそもそもあまり化粧をしないのだ。ベースと眉毛を書くだけ。それだけなのに映える顔つきをしているのは、ロシア人の祖父の血が影響しているのかもしれない。
「おさきー」
 肩上で揺れる毛先に水滴をつけながら歩けば、タオルで受け止めきれなかった水滴が床に落ちる。
「はーい、今日入浴剤変えたんだけどどうだった?」
「めっちゃいい匂いだった! 今も残ってるよ」
 そう言って差し出した腕は白く細い。近づけるとほんのり柑橘類の匂いが漂ってきた。いつもは薄いハーブ系の入浴剤だが、少し鼻に残る匂いが気になっていたため変えてみたのだ。
「本当だ。すっごい残ってる」
「でしょー。これなら香水振らなくてもいい匂いしそうだよね」
「明日まで持つかな?」
 そうなればいいなとタオルで豪快に髪を拭くと、勢いよくソファに腰掛ける。まだ寒そうな太もも丈のショートパンツから伸びる足は長く、真っ直ぐと伸ばせば机まで余裕で届いてしまう。
「私もお風呂行こうかな。タオルってまだあった?」
「あったよー。次がラスイチ」
 テレビの電源を入れると、ソファに体をゆだねる。入浴剤が気に入ったのだろうか、いつもより上ずった声で返事をした秋華に胸を撫でおろした。




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