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【小説】雨音に交じる悲歌


前話




 雨の降る音を聞いていた。地面にできた水たまりを叩くぽつぽつという音は可愛らしく、揺れる水面に映った僕の顔は歪んでいたけれど目が離せなかった。夢の故郷にあった湖を思い出す。

 雨の降った日は湖に行かなかった。ここでは傘が存在していたけれど、向こうには傘自体が無かったから。

 そもそも雨の日に外に出る習慣がなく、雨の日は家の中で窓の外を眺めて過ごしてばかりだった。カナタの家が真隣にあれば抜け出して遊びに行くこともできたのに、田舎の村は一軒一軒が遠い。

 そんな日、彼女は一体何をしているのだろうか。雨をしのぐ場所もない湖の真ん中で、ただ静かに雨に打たれる彼女の背中を思い浮かべて、今ようやく、少しだけ彼女の気持ちが分かった気がする。

「……案外、冷たくないな」

 頭に落ちる雨粒は静かに髪の毛を濡らしていく。旅を始めてから一度も風呂に入っていないから、ちょうど良かったかもしれない。溜まった皮脂を洗い流してくれるほどの勢いはないが、少しは気持ちよくなれそうだ。



「雨の日は、ここで何をしているの?」
 湖に石を投げ込んで暇をつぶしていた彼女にそう声を掛けると、彼女はきょとんとした顔をして、しばらく開けた口を動かさなかった。何か変なことを言っただろうかと考えながら模倣するように彼女を見つめる。

「雨の日……? 考えたこともなかったなぁ……」
 眉をひそめて真剣な表情を浮かべる彼女を見て、おそるおそる口を開く。
「いや、ほら、この間とか、雨降ってたから。何してるのかと思って」
「この間?」

 話を聞いてみれば、彼女曰く雨が降っていた日は無いそうだ。彼女がここに来た日から、一度たりとも雨は降っていない、彼女はそう教えてくれた。雨の日以外はここに来ているから、たまに僕が来ない時はカナタと遊んでいるのだと思っていたらしい。カナタはここに来るのをなぜか嫌がるので一緒に来ることは無いが、午前だけだったり夕方だけだったりに一緒にいることが多い。でも、ぼくが湖に行くようになってからカナタが僕に話しかけることは少なくなっていた。

「雨って幻なんじゃないの? お伽噺の中での話じゃないの?」
「違うよ、本当に降るよ」
「私の住んでたところでは、雨は降らなかったから。だって、空から水が降ってくるのって怖くない? いつ止むか分からないもの」

 降り続いたら雨に溺れて死んでしまうわ、と腕を組んで少し怯えたように彼女が言うものだから、それを聞いて笑うことは出来なかった。
 きっと実際に月では雨は降らなくて、雨は恐れられるものだったのだろう。恐れられているという点では、少しこの村と似ているかもしれない。どうして雨の日に外に出ないのかは知らないが、家の中に籠る姿は雨に怯えているようにも見えるだろう。

「その割に、君はずっと湖の上にいるけど、それは怖くないの?」

 小島のように浮かぶその場所が彼女の定位置だ。バランスを崩せば落ちてしまいそうな広さの場所で、君はいつも僕のことを見ていた。

「だってここの水は私のものだもの。私が月から持って来たもの。急に増えたりなんてしないから、少しも怖くない」
「別に、ここに水も何もなしに増えたりはしないよ」
「分からないじゃない。もしかしたら湖の底に魔物が棲んでいて、急に襲い掛かってくることがあるかも」
「それはあるかも」
「ほら!」

 言った通りじゃないか、と言わんばかりの表情でこちらを指差した彼女は、勢いのまま危うく湖に落ちてしまうところだった。気を付けてよ、と声を掛けると、「そんなに鈍臭くないよ!」と返されてしまった。
「別に落ちたところでこの水だったら平気だよ。どこの水より一番美味しいんだから」
「そういう問題なの?」

 ここに湖ができてからここの水を飲むようになったけれど、美味しいことはよく知っている。喉をすっと落ちる柔らかい水が体にしみ込んでいく感覚が伝わってきて、汗をかいたときに飲む水は特に最高だと感じた。けれど、それは案外現実に戻った時にも感じていて、汗をかいた後に飲む水は同じように美味しいのだ。

 彼女の言葉に首を傾けて適当にあしらっていると、聞き慣れない言葉が耳に入る。

「君さ、やっぱりセナセの人でしょ」
「セナセ?」

 頭を巡らせても理解することのできない言葉に頬を掻いていると、いたずら気に笑みを浮かべた彼女の口元が緩む。

「ああ、これじゃ分からないか。えっと、ほら、地球のこと。きみ、ここの人じゃないでしょ」



 思い出すだけで、痛むように跳ねた心臓の感覚がよみがえってくる。

 あの場所が一体どこなのか誰かに聞くようなことはしなかったけれど、おそらく地球ではないことを察しがついていた。何故かと問われれば説明はできない。文化や言語も大して変わらない、異なるところがあったとしても方言みたいにその土地特有のものだと納得できるみたいに、大きな違和感はない。幼い頃から故郷のようにその場所で生活していたから、全てを納得してしまっているのもあるかもしれない。
 
 だから、彼女が「地球」と言う言葉を口にしたことに驚いた。だって、ここでその言葉を聞いたことが無かったから。

 雨が次第に強くなってきた。強く跳ねる心臓の音も掻き消してしまうくらいに大きな音は、僕の心を落ち着かせようとしてくれているのだろうか。既にずぶ濡れになってしまったが、さすがにこの雨の中歩いているのは人目に付く。どこか建物の屋根の下に入ろうと視線を回すが、広い道がずっと先まで続いているだけで、建物どころか人っ子一人見当たらない。

 しばらくしたら止むだろう、としばらく歩き続けても雨は止まなかった。そろそろ冷えてきた体をいたわろうかと視線を回した時、背後から異なる音を聞いた。地面を打ち付ける雨とは違う音に振り返れば、淡い青色の傘を差した彼女と出会った。

「こんにちは、良かったら入らない? って、今からじゃ遅いかもしれないわね」


 そんなことないです、と言って彼女の言葉に甘えて傘に入れてもらって少し経った頃に、雨はやんでしまった。

「すみません、せっかく入れていただいたのに」
 つい謝ってしまうと、彼女は首を横に振って静かに返事をしてくれた。
「いいのよ、私があなたに声を掛けたのだから」

 大きめの傘についた水滴を落として綺麗に畳んでから、再び口を開く。「この辺りでは通り雨が何度もあるわ。すぐに止むと分かってて声を掛けたのよ。どうしても、濡れているところを見過ごせなくて」
「あれだけ濡れてしまったら、もうどれだけ雨に打たれても同じでしたけどね。でも、ありがとうございます」
「なんだか、今日の雨は少し強い気がしたから」

 彼女に倣って空を見上げれば、灰色の空は鮮やかな青色を取り戻していた。柔らかい日差しが暖かく、雨で濡れた体には身に染みる。風が吹けば体が震えるが、彼女が指し出してくれたタオルのおかげで少しはましになった。

「なにからなにまですみません」
「いいの、気になさらず。きっとこのあとも何度か降ると思うから、良ければ私の傘を貸すわ。すぐ近くだから」

 そう言いながら彼女が指した方向には一軒の家がぽつりと建っていた。一人で暮らすには十分すぎる大きさの平屋の壁は白く、青い屋根と相まって爽やかさを感じられる。
 彼女の後について家へと向かう。辺りに満ちたペトリコールからは、なぜか湖の匂いがした。

「掃除できていなくて。汚くてごめんなさいね」
「いえ、そんなことないですよ。壁も真っ白で、手入れされているのかと思いました」
 漆喰特有の少しざらざらとした壁を撫でてみるが、指先は一つも汚れない。庭もちゃんと雑草は引かれているし、窓にも水垢は見当たらない。
 彼女は玄関の傘立てにあった一本の傘を掴むと、こちらを振り返った。

「私ね、色が見えないの」

 少し視線を落とした彼女の申し訳なさそうな表情に、無意識に口を開いた。
「大丈夫ですよ、お気になさらず。つい先日、皚々たる街に行っているので」
 きっと僕ももうすぐ白月症になる、口にせずとも彼女に意図が伝わったのか、彼女の表情はころりと変わった。しかし、すぐにそうではないと教えてくれた。

「ううん、違うの。私は生まれたときから。だから、白月症じゃないわ。でも、白月症って言った方がいいかもしれないわね。その方が理解されやすいかも」

 無垢な笑顔を浮かべた彼女は、子供のように思えた。本当に楽しそうだったから言葉が出なかった僕の代わりに、彼女は続けた。

「以前美術館に行ったとき、壁にほこりがついていたの。絵画に付いちゃいけないと思って取ろうとしたんだけど、全然つかめなくて。そうしたら友達に、『それはそういう壁なんだよ』って教えてもらって。色が無いとね、柄も汚れも区別が上手くつけられないの。だから、お掃除が苦手で」

 恥ずかしいのか、彼女の頬が少し赤くなる。「色を失うのが怖いってみんな言うけれど、私にはその気持ちが分からないの。だって、そもそも色を知らないから。そういう意味では、私は白月症とは言えないかも。だって白月症の人はみんな、元々の色を知っている人だから。……あなたは、色を失うのは怖い?」

 ころころと表情を変えて話す彼女は、最後に少し悲しそうに眉を下げて僕を見た。きっと彼女には分からない、色を失うという感覚が。元々色を知らないから。

「……怖くないと言えば嘘になりますが、色を失うより怖いことがあるので、僕には」

 だからこうやって歩き続けているのだ。失った彼女を取り戻すために。

 灰色に曇った彼女の瞳は、雨が降る前の空みたいだった。太陽の光が雲に隠れて辺りが暗がり雨が降り始めると、瞳は黒く落ちた。

 玄関先に置かれた二人掛けのベンチに腰掛け、空を見上げる。
「ねえ、もし良かったら、私に雨の色を教えてくださらない?」

 今はきっと、彼女と同じ色の空が見えているはずだ。




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