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【小説】雪に落つ星二つ


「願い木を見に行こう」


 新雪の積もった山は美しい。寒さで動物さえも眠る季節の空はぐんと高く、透き通って見える。長く降り続いた雪で地面は一切見えないが、先を歩くヨヴェの足跡を辿ることでシェーナも山を進むことができた。

 雪の中を歩き続けて、服は濡れて重たくなっていた。引きずるように歩いていたけれど、次第に体力が奪われていく。見上げれば見えていたはずの青い空は、雪にも負けず生い茂る緑に遮られて見えない。

「シェーナ、ついて来てる?」

 歩き続けていたヨヴェは、少し離れて後ろを歩くシェーナに振り返り、足を止めた。成長期はまだまだ先のシェーナは、村の中でも一番体が小さい。一つ年下の女の子よりも小さいが、シェーナ自身はそのことを気に留めていない。そんなシェーナは服を着込んでいても随分と小さく見えた。服に埋もれてシェーナ自身はほとんど見えない。吹雪いていれば見失っていたかもしれない。

 名前を呼ばれたシェーナは顔を上げると、顔を覆っていたマフラーを下ろして、うん、といつもと変わらない声色で返事をした。慣れない雪道を歩き続けて疲れているはずなのに、そんな感情を一つも見せない。むしろ、吐きだした息が白くなるのを見て少し頬を緩めている。まだ子供のシェーナは男とも女とも言えない中性的な顔をしているが、無邪気に笑めば穏やかさが滲み出て、可愛らしい女の子のように見えた。寒さに耐えながら真剣に歩いている今は、本来の性別がはっきりと浮かんでいる。大人になれば良い男になるだろうと思いながら、付いてくるシェーナの表情を確認した。

「もう少し歩くよ。まだ歩ける?」
「うん!」
 声を張った返事だったが、言葉の中に荒い呼吸を聞き取れた。普段することのない運動にくわえていつもより標高があるため、体が慣れていないのだろう。それでもシェーナは文句ひとつ溢さずヨヴェを追いかける。新雪に残された足跡だけが頼りだ。

 ヨヴェが向かっているのは、願いを叶えてくれる木のある山の頂上だった。随分と昔からあるその木は太く、樹齢五百年は優に超えている。開けた山の上は丘のようにも見え、村の人がピクニックをするために訪れることもあったそう。しかし、数年前の土砂崩れにより道が崩落、頂上への安全なルートがなくなってしまったため、人が訪れることは無くなってしまった。

 獣も通らないような森の中を掻き分け、頂上を目指す。柔らかい新雪に足を取られることは無いけれど、柔らかいゆえに滑りやすい。しっかりと踏みしめて歩くことで、後ろを歩くシェーナに道を作った。先日マキラが教えてくれた靴裏の処理の方法を試したおかげで、滑ることはほとんどない。雪についた凹凸は、靴裏に仕込んだ尖った木板が残したものだ。

 時折振り返り、シェーナを確認する。少し後ろの方を歩いているが、その距離が広がることは無かった。白い息を吐き出しながら小さな体を動かして懸命に付いてくる姿は、親鳥を追う雛のようだ。何度も掛けようとした声を飲み込み、先へ進む。

 吐き出す息がマフラーに当たり、白く凍る。それが顔に触れて体温を奪っていくのだから、仕方なくマフラーで口を覆うのをやめた。息が上がっている証拠だ。仕事で体を動かしていても、山を登るとなれば話は別なのだろう。使わないふくらはぎや太ももに負荷が掛かり、じんじんと痛んでくる。肉の中の何かが突っ張る感覚。もしかしたら寒さのせいで体が固まってきているのかもしれないが、なにが原因なのかは分からない。

「ヨヴェ」
 背後から聞こえた声に振り返ることなく、返事をする。
「なに?」
「ざぁざぁいってる」
 シェーナは指を差していた。とは言ってもミトンの形をした手袋で隠れた手で人差し指を伸ばしていたのかは定かではない。伸ばされた腕に沿って視線を向けた先にはまだ森が続いていたが、呼吸が落ち着いてきたころ、水の流れる音が聞こえた。耳当てを外せばその音はさらに大きくなる。
「本当だ……。川でもあるのかな」

 水の流れるような音を探して、森を進んでいく。いつの間にか隣を歩くシェーナも辺りをきょろきょろと見回し、音の在り処を探しているようだった。落ちかけていたニットの帽子を直して形を整える。物置の奥から引っ張り出したニット帽はところどころほつれていたが、シェーナは口角を少し上げながら帽子を受け取ったことを思い出す。

「ヨヴェ、川、あるの?」
「ありそうだね。こっちかな」
 シェーナの手を掴み、音の方へ歩いて行く。水の音に耳を澄ませていると、ほかの音がほとんど聞こえないことに気づかされる。水の音が聞こえていない時よりも静けさが目立つ。雪を踏みしめる小さな音でさえよく聞こえるようになった森の中を進みしばらくすると、森を横断する大きな川が現れた。

 凍らないほどのささやかな水が穏やかに流れる川だ。そこに魚がいることはきなく、川を渡ることも容易なほどの浅さだ。点々と顔を覗かせる岩は、こちら側とあちら側を繋ぐ橋の役目をしている。
「家の近くの川よりも、小さい。魚、いるかな」
「寒いから魚はいないかも。春になったら雪解けで水が増えるから、魚も泳ぐようになるかもしれないね」
 シェーナはヨヴェの手を強く握ると、川に顔を覗き込ませる。川上から川下へ視線を移すと、薄青い水が反射して宝石のように輝いた。氷点下近くまで下がった水は澄んでおり、冬の空のように美しい。

「この水、飲めるかな」
 シェーナはじっと川を見つめてそう言った。
 川上に視線を向けると、川は山の奥から流れてきているようだった。村に水を供給している水もあの山から下りてくるものだ。
「大丈夫、多分飲めるよ。のど乾いた?」
 こくりと頷いたシェーナを確認して、バッグから水分補給用のカップを取り出す。雪を足で掻き分け、川べりに腰を下ろす。カップは縁を少し濡らしただけで、すぐに川底に触れてしまった。ゆっくりと増えていく水を眺めながら待っている間、シェーナはヨヴェのことをじっと見て待っていた。
 溜まった水に小石が入っていないか目視で確認する。汚れ一つない川の水は透き通り、カップの底がはっきりと見えるほどだった。水さえ入っていないように錯覚する。

「はい、どうぞ」
 両手で受け取り、カップの中の水をじっと見つめる。ふっくりと膨らんだ唇をカップの縁に乗せ、ゆっくりとカップを傾ける。音もなく水はシェーナの唇に近づき、僅かにそれが触れると、ん、と声を漏らした。
「うんと冷たいから、ゆっくりね」
 一度離れた水が、再びシェーナの唇に触れる。冷たさに慣れさせた後、隙間からゆっくりと水を流し込んだ。舌を滑り喉に落ちた水は、体温を下げていく。水が落ち切った後、息と一緒に、水で冷えた空気を吐き出した。息は白く見えなかった。

 シェーナはもう一度水を含んだ。喉を鳴らして水を飲む様子から、相当喉が渇いていたようだ。
「美味しい?」
 黒い瞳を輝かせたシェーナはヨヴェを見上げ、こくこくと頷く。川の水は上流であるほど汚れが少ないため美味しいと聞いたことのあったヨヴェだが、実際にその川を見るのは初めてだった。きっと嵩が増えても川の底が見えるほど透き通っているのだろう。川が起こす冷気の風は肌に痛いが、大きく鼻から息を吸うと、その冷たさからは爽やかさを感じられた。交じり気のない新鮮な空気の匂い。

 最後まで飲み干したシェーナはカップを両手で持ち上げると、
「おかわり」
と、言って二杯目をねだった。
「体が冷えるからやめておこうか。もうそろそろ行かないと、帰りが夜になってしまう」
 ね、と諭すように言うと、僅かに肩を落としたのが分かった。首を左右に揺らして眉をひそめていたが、何度かしてから、分かった、と頷いた。

 せっかくだからと思い、川を越えて頂上を目指す。方角さえ間違わなければ、森の中で迷うことは無いと言ったマキラの言葉を信じて寄り道をする。これが遠回りとなるか近道となるかは、きっと知らなくても良いことだ。
 一歩ずつ石を飛んで川を渡り、再び新雪を進む。心なしかシェーナの顔が柔らかくなっている気がする。声を漏らしながらついてくるシェーナを愛おしそうに見つめながら、ヨヴェは南西を目指す。

 しばらく森の中を進むと、木々の隙間を縫ったずっと向こうが明るくなった。もうそろそろだと振り返ると、シェーナは眩しそうに目を覆っていた。
 あの光の中に、願い木が立っている。眩しかったのは一面広がる雪が光を反射させていたためで、たとえ太陽が雲に隠れていようとも、まだ誰も踏み入っていない雪は目が眩むほどに美しいのだろう。


「わあ……。まっしろだ」
 零れそうなほど見開かれた瞳は、大きく艶がある。右を見ても左を見ても、真っ直ぐに白い地面が広がっている。シェーナは生まれて初めてこの景色を見た。息をするのも忘れてしまっているのではと思うほど見入っているシェーナは、ヨヴェが微笑ましそうに頬を緩めているのには気づいていない。

 シェーナの視線は、ゆっくりと、大きく聳え立つ一本の大樹に向けられた。それに気づいて、ヨヴェは告げる。
「シェーナ、あれが願い木だよ」

 遠くから見ても太いと感じられる大きな幹が地面に足をついている。そこから伸びる枝は幾重にも分かれ、蜘蛛の巣よりも複雑に絡み合う。葉を落として枝だけになっていたが、その大きさは寂しさを感じさせない。
 青い空が背景にあることで、枝一本一本がはっきりと浮かび上がる。幹の長さ以上に伸びた枝たちは、空に自身の証を残そうとしているようにも見えた。

「大きいね。あれ、本当に木?」
「木だよ。何百年も前からここにあるんだよ。時間をかけて、ゆっくり大きくなったんだ」
 何百年と数字を言われても、その長さにぴんと来なかった。それほど壮大なものであることを、シェーナはまだ認識できないのだ。
「大きな人みたい。こっちに歩いてくるかな」
「歩いては来ないよ。ずっとあそこで、僕たちを見守ってくれているから。さあ、近くに行こうか」

 遠くから見ていた願い木は、近くで見ると、その迫力が増す。見上げても木のてっぺんまで視線が届かない。顎を上げすぎて後ろに転びそうになったシェーナの背中に手を添えると、はっと顔をヨヴェに向けた。
「大きいね、ヨヴェ。てっぺんからなら、村が見えるかな?」
「もしかしたら見えるかもしれないね。でも、上るのは止めておこうか」
「そっか、分かった」

 素直に返事をすると、そそくさと手袋を脱いで、指を重ねた。風に当たった指先がじわじわと赤くなっていく。身支度を整えて朝一にお祈りをしているため、シェーナは自然と指を重ねていた。
「シェーナ、今日はそうじゃないよ」そう言ってヨヴェも手袋を脱ぐと、両の手のひらを重ねた。「今日は、こうやるんだよ。それで、願い事を言うんだ」
「願い事? お祈りじゃないの?」
「うん。願い木だからね」
 静かに頷いた後、ヨヴェは目を閉じた。何も話さなくなったヨヴェの真似をして、手の平を重ねる。小さな手はぺちんという乾いた音を辺りに落とした。

 少し目を閉じていたシェーナだったが、何度か目を開けてヨヴェを見上げていた。願い事、いつものお祈りとは、少し違う。お祈りの時は挨拶をした後、目覚められたことに感謝して、幸せな一日を祈っていた。
 ──ヨヴェ。願い事は、なにをすればいいの?
 何度も口にしようとしたが、目を瞑る彼に声を掛けることが出来なかった。辺りの静けさも相まって、音を立ててはいけないような気がしたのだ。手袋を脱いだ指がどんどんと冷えて、次第に痛みに変わる。早く、早く、目を開けてヨヴェ。どうすればいいの?

「──ヨ、ヨヴェ」
 絞り出した声に、ヨヴェは「ん?」と軽い声で返事をした。願い事を終えたヨヴェはどこか清々しい顔をしているように見え、シェーナの不安そうな表情が際立つ。
「ちゃんと、願い事できた?」
 重ねていた手は、シェーナの頭に優しく乗せられる。普段からの水仕事で荒れた指は乾燥して、女性のように細い。何度も割れた爪は深爪ぎみで痛々しい。いつもと変わらない手に温かみを感じ、その手を両手で握る。
「願い事って、なにをすればいいの? お祈りとはなにが違うの?」
 まだ小さな手では、シェーナの手を包み切ることは出来なかった。

 ヨヴェと一緒に暮らすようになってから様々なことを、少しずつ教えて貰っているが、まだまだ知らないことはたくさんあった。村の子供たちが持っているであろう最低限の学びさえ受けられていないシェーナには、教えられていない「お願い」でするべきことが分からなかった。
「なにもお願い事、しなかったの?」
「うん」
 こくりと頷く。
 ヨヴェは少しだけ考えてから、よし、と声を漏らして。

「じゃあ、もう一度手を合わせて」
 言われた通りに手を合わせる。手からヨヴェの手が滑り落ちる。
「目を瞑って、来年もここに来られますようにって心の中で話すんだ」
 来年もここに、来られますように。
 呑み込めていない言葉を、お祈りで告げる感謝の言葉のように繰り返した。ヨヴェが言うのだから、この言葉で間違いなのだろう。ご飯の食べ方も、水の汲み方も、心細い時の眠り方も、ヨヴェが教えてくれたものだ。そして今日教えられた願い事も、忘れてはならないのだと思い、忘れないように、何度も、何度も、繰り返し唱えた。

「ヨヴェ、できたよ」
「良かった。次に来たときは、ちゃんとシェーナの願い事が言えるようにしよう。雪が溶けて春が来て、もう一度雪が降った時、またここに来ようか」
「願い事は、来年もここに来られますように、じゃないの?」
「それだけじゃないよ。願い事は、色々あるんだ。欲しいものとか、したいこととか。今はまだ願う時じゃないみたいだから、次の時にしよう。それまでに、願い事を考えておくんだよ」

 シェーナが脇に挟んでいた手袋を手に取ると、赤くなった手をそれで包む。柔和な笑みを浮かべたヨヴェの後ろには、少し暗くなった空が広がりつつあった。
「そろそろ戻ろうか。今日はシチューだよ」

 ヨヴェの手を握れば、徐々に温もりを取り戻してゆく。最後の言葉の意味はシェーナには分からなかった。
 願い事は、色々あって、だから、次またここに来るまでに、シェーナの願い事を考えておく約束。

 ぼくの、ねがいごと。
 それって、自分で決めても良いってこと?

 突然強く感じられるようになった心臓に、手を添える。先ほどと鼓動は変わらない。しかし、まるで突然動き出したかのように大きく感じられた。じわりと温かくなっていく。心臓から一番離れた指先も、温もりを帯びて感覚が戻ってきた。これが感情なのか、何なのか、シェーナには分からないが、悪いものではないことは分かった。
 だって、こんなにも温かいのだから。

 にんじんとじゃがいもがたくさん入ったヨヴェ特製のシチューを想像して、シェーナの腹がくるくると鳴く。それを聞いて、お腹も喜んでいるのだと頬を緩める。

 願い木から伸びる足跡は、その日の夜の吹雪で掻き消えてしまった。

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