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【小説】海にいた幼気な遺体と共にいた


前話




 降り続いた雨は、紫陽花の里を出る頃には止んでいた。モノクロに落ちる雨はいつもと変わらないように思えたけれど、葉を叩く音はいつもより重く聞こえた気がする。
 動かなくなったテレビを直すように、色を失ったものを叩いても戻ってきたりはしないのに。そんなことを思いながら去った紫陽花の里は、皚々たる街と同じく白月症にかかっている。

 色盲の彼女が渡してくれた傘は、使わずに畳んだまま握っていた。彼女の家を離れてから気づいた、この傘は新品だ。タグは取られているが、使われた形跡はほぼない。
 僕に声を掛けてくれたときに使っていた傘と比べれば、どちらが先に購入されたものなのかは一目瞭然だった。
 新しいものがあるのに彼女が同じものを使用していることに、色が見えない以外の理由があるのだろうか。大切な人から貰ったものであればいいのにと何度も考えた。来た道を戻らないと、この傘を返すことは出来ない。彼女はそれを分かっていて傘を貸してくれたのだろうか。

「ここには、あなたの他に誰か生活しているんですか?」
 静かな場所だった。車の走る音どころか、人の声や物音さえも聞こえない。雨のせいか鳥は見かけず、僅かに虫の音が風に乗って聞こえてくるくらいだ。その風さえも、音を潜めるように柔らかい。

「今はいないわ。以前は人がいたけれど、月が落ちてからみんないなくなってしまって」辺りに視線を向けた彼女が、どんな瞳をしていたのかは分からなかった。「みんな、私のことを嫌っていたの。色が見えないのは可笑しいって言って。だから、色が失われるのを嫌がった。だって、白月症になったら私と一緒になるから。そうしたら、今まで私に言っていた言葉が全部自分に返ってくるでしょう?」
 彼女の言い草に首を傾けそうになったが、咄嗟に喉に力を込めて言葉を飲み込んだ。今は何を言っても穴を掘ってしまう気がしたから。
 何かを思い出すように彼女が見上げた空は、灰色だった。もうしばらくすればまた雨が降る、数分前に彼女が教えてくれた通り、青空は見えなくなっていた。

「じゃあ、今は一人なんですか?」
「ええ。随分と静かになってしまったわ。行く当てもないし、私はここにいた方が良い気がして。あなたの街に、人はいるの? どこの街も、同じようになってしまっているのかしら」
「……僕の出身は潮沼市の丘区です。だから、街にはもう誰もいません」
 隣町に月が落ちていながら被害を免れた僕の街は、当時、毎日のように名前を呼ばれていた。魔術か神の悪戯か、現実味のない言葉を並べて話題にされた丘区の名前を知らない者はいない。

「そう、随分遠くから来られたのね。月は、潮沼市に落ちていたのね」
 丘区の名前を知らない者はいない、そう思っていた。
 彼女はその事実を受け止めるように、静かに言葉を放った。淡々と言葉を返したのは僕のことを思ってだろうか。二年前のことを今になって騒いでも、悲しみをぶり返すだけだと、そう思われているような気がした。
 でも僕はそれ以上に、彼女が何も知らないことに驚きを隠せなかった。

「いいえ、月は、潮沼市の隣の浜南市に落ちました。被害は大きく、浜南市だけじゃなくて、周辺の街も消えてなくなってしまいました。更地になった街はまるで砂漠みたいだと、白月症になった人たちは言います。そんな中で、丘区は、丘区だけは、被害を免れました」
「それならよかったわ、自分の街が無くなってしまうのは悲しいもの。でも、そんなことがあるなんてって思ってしまうわ」
「理由は分かっていません。魔法が存在しない限りそんなことはありえない、とテレビでずっと取り上げられていました」
 口をつぐんだ彼女は、何かを思い出したかのようにはっと視線をあげた。そうして、ごめんなさい、と一言謝りを入れてから続ける。「私、家にテレビを置いていなくて。ネットも、ラジオも。だから、何も知らなくて」
「いえ、謝ることではないですよ。……確かこの街の人は、みんないなくなってしまったんですよね」
「ええ、二年前、月が落ちてから」
「その、」
 続きの言葉を紡ごうとして、微かに喉に留まる。その隙をついてか、彼女に先を越されてしまった。
「月が何処に落ちたのか、教えてくれる人はいませんでした。みんな、私を置いて行ってしまったので。いつも聞いていたのは街の放送局が流してくれているラジオだけで、……それも、人がいなくなれば放送されなくなりました。だから、何も知らないんです」
「そう、でしたか」
「でもあなたのお陰で、知ることができました。あなたが教えてくれなければ、私は知らないままだったでしょう」
 色が見えないと言うだけで迫害されるような扱いを受けるこの街には、色鮮やかな建物が建っている。目だけで楽しめるような鮮やかな街並みは遠くからでもよく分かる。どこかで名前を聞いていそうだけれど、彼女が口にした街の名前を聞いたことは無かった。いつかまたあの街に行くことはあるだろうか、彼女に会いたいと思った時くらいしか、行くことは無い気がする。



 屋根を叩く雨音が弱くなってきたのを聞きながら、完全に聞こえなくなる時を椅子に座りながら待っていた。読んでいた本の内容が頭に入らなくなり、窓の外を何度も見つめる。天気予報なんてないこの世界では、静かに待っていることしかできない。しいて言うなら、シノさんが「雨の匂いがする」と言って雨を予測してくれるくらいだ。昔は百発百中だったらしいけど、今は二割しか当たらない。
「明日は晴れる、死んだ婆さんの機嫌が良いんだ」
 昨日のシノさんの言葉を思い出す。昼からは快晴になった。

 当然のように家を出た。湖に向かうのが当たり前で、今日は彼女のためにクッキーを持って行こうとポケットに入れたクッキーが膨らんでいる。その足を止めたのは、カナタの声だった。

「イオリ」決して久しぶりに聞いた声ではない。「北の山行こうぜ」
「好きだね、北の山。北上しちゃだめだって何度も言われてるのに」
「そんな堅苦しいこと言うなよ。あっ、もしかしてビビってんの?」
「まさか、カナタじゃあるまいし」
「ビビってたら誘うわけないだろ」
「一人では行けないから、僕を誘ってるんじゃないの?」
「そこまでビビりだと思われているとは心外だな……」

 少し眉をひそめたのを見て、冗談だよ、と返す。今日はいつもより言い返してしまったと思い、持っていたクッキーを彼に渡した。月に一度やってくる女性が売ってくれるクッキーは、カナタの大好物だ。

「おっ、この間買えなかったから助かる。いいのか?」
「多めに買っておいたからいいよ。来月は来られないらしい」
 クッキーを受け取ったカナタは口角をきゅっと上げて、「サンキュ」と空気が弾くように言った。
 薄い布の中にはいつもクッキーが七つ入っていて、どうやらここでもラッキーセブンは存在するんだ、なんてことを初めてこのクッキーを買った時に思った。練り込まれた木苺が甘酸っぱくて美味しい。

 布の端を結んだ紐をほどくカナタの細い指を見ていた。その動きが徐々に遅くなっていく。
「……今日、この後、何するんだ?」
 まるで割れ物に触れるかのような細い声だった。その言葉の意味は明確には分からないけれど、何故か知っているように心がどくりと鼓動した。これはしない方が良い話だと言っている。けど。
「湖に行くよ」
 ここで嘘を言ってしまうと、否定してしまうように感じられて拒否したくなる。じわりと浮かぶ現実のこと。現実が夢に侵食してくるようだった。
 開けては閉じてを繰り返すカナタの指。ああ、そうなんだ、そっか。曖昧な返事にじゃあねと簡単に言えれば良かったのだけれど、出てきた言葉は僕の足を進ませない。

「カナタも一緒に来る?」
 音を立てていた指が止まる。
「もうすぐ水、無くなりそうじゃない? ついでに一緒に行こうよ」
「いや、俺は止めておこうかな。この後ちょっと用事があって」
「僕を北の山へ行こうって誘ったのに、用事があったんだ」
「水はいつでも汲みに行けるし、多分、まだ余裕はあると思う」
「暑いから、水浴びでもいいんじゃない? でも、いいなら別に」

 いないはずの蝉の声が聞こえる。汗ばむ肌が気持ち悪い、汗を拭おうと肌に触れればざらざらとした感触。夕立が過ぎた後の帰り道を思い出した。

「最近さ、イオリ、湖に行ってばっかりじゃん。たまには他の場所行くのもどうかなーって。まだ行ってないところたくさんあるし。湖に行くのもいいけど、すぐ近くだから冒険感が無いっていうか。もっと前みたいな色んなところ行きたいなって俺は思うんだ。だからさ……湖に行くの、止めないか?」
「カナタもそう思うんだ」
 口にしてしまった言葉は、脳裏を流れた言葉を掻き消すように被る。

 ──なんとなくわかるんだ。
 ここの人たちはこの周辺から出ることは無くて、行ったとしても前まで水を汲みに行っていた場所くらい。外の世界を知らないから知見が狭くて、だからこそ外からの何かをすぐに受け入れなかったりする。

 頑なに湖に行きたがらない理由に見当は付いている。何度も過ぎった彼女の言葉が、それを事実にしてしまおうと意志を持っているようで恐ろしい。しかし、それを擦り込まれなくとも、彼らが彼女のことを好んでいないことなんて嫌というほど分かっていた。
 余所者、気味が悪い、天災、一歩間違えればこの村は湖の底に沈んでいた。忌みは次第に嫌悪、そして恐怖へ。村一つを壊すことができる彼女は、兵器のようにも見えたのだろう。一度見えてしまえば、その印象は剥がれ落ちない。

「カナタ、湖をちゃんと見たことある?」
「ちゃんと、って……?」
「視線をそらさず、真っ直ぐに。波は立たないし、底まで透き通って見える。天気のいい日は特に綺麗に見える。水は冷たくて、手に乗せて飛ばしたらキラキラと光って落ちるんだ。村の近くにこんな綺麗な場所ができたことが、僕は嬉しい」
 合わない視線がノーだと言っていた。化け物を見たくないのと同じで、気味の悪いものをちゃんと見ようだなんて思えない。人の脳は、そうやって自分の中で良い悪いを判別している。自分にとって良いのか悪いのか、それは都合だったり体裁だったり仲間だったり。

「みんな目を逸らしているから見えていないんだ。決して目に悪いものじゃない。もしそうだったら、そんなところの水を飲むもんか。今のままじゃ、都合よく利用しているだけじゃないか」
 何も言い返さないのを良いことに、僕の口からはするすると言葉が出てきた。それは、今まで言えなかった本当の気持ち。

 小さな水の音が心地よかった。こんな場所で、みんなでピクニックをしたら楽しいかもしれない、なんてことを考えていた僕は馬鹿々々しいのだろうか。もう夢のような話だと思うべきなのだろうか。

 僕たちは何も言わなかった。湖を好む僕と、この場所を気味悪がる村の人たち。ただ互いに、静かに、〝そういう気持ち〟を滲み出すだけ。互いに悪となる言葉を言わなかった。それは、元々みんなが一つだったから。閉塞した場所で、みんな同じ考えの元で生活していたから。
 雨が降っている時は外に出ない、怪我をしたらかさぶたが落ちるまで毎日冷水で洗う、日と共に起き日と共に眠る。全員で合わせてきたリズムを崩せば、もう二度と上手くいかないと思い込んでいる。一度誰かを悪だと言えば、その人はもう帰ってこれない。
 争いが無かったのではなく、争いを起こさなかっただけなのだ。その空気に耐えられなければ、その人物は村を出て行くだけ。そうしていなくなった人は決してゼロではなかった。

「ちゃんと見てみないと分からないよ。彼女とも、話してみれば印象が変わるかもしれない。言語は同じだし、危険なことは何もしてこないよ」


 ──そう言った後、カナタは何と言ったんだっけ?


 突然、靄が掛かったように忘れてしまった。その言葉の先が見えない。目の前にいるカナタがなにかを言っているはずなのに、辺りは静かだった。

 カナタは僕の腕を掴むと、強い力で引っ張られた。行き先は湖だとすぐに分かった。和解したんだっけ、分かったと彼は頷いてくれたんだっけ。まだ思い出せない。
 とても道とは言えない森の中を進み、小枝が顔に当たりそうなのを避けながら進む。

 森を抜けて湖が辺りに広がっても、カナタは足を止めなかった。顔をあげれば、湖の中央でこちらを見つめる彼女を認めた。しかし、彼女と目は合わなかった。色が見えない。
 上手く状況を把握できないままカナタの力に引っ張られ、転ばないように地面を踏ん張った。不慣れなダンスを踊っているような気分。
 そうして気づいたときには、水の中だった。


 そうだ、ぼくは、海にいて、


 街へと戻る途中にあった、晴臣と行った小さな海は荒れていた。先ほどまで降っていた雨のせいかと思いながら、白波の立つ浜に降り立った。雨の湿気で体に籠っている熱気を逃がすために体を冷やそうと脱いだ足からは、鼻を突く酸い臭いがした。

 たまに空く大穴は、海が人を飲み込むために存在する。誇らしげに教えてくれた晴臣の顔がはっきりと浮かんだ。穴に足を取られた瞬間、それはそれは色濃く。




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