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【小説】ダークジェムの眩み

 雨が連れてきた寝苦しい夜は、夏によって連れ去られた。

 空いた席を埋めるように熱気を帯びた夜風が窓から入り込む。それも寝苦しさを感じさせるものではあるが、湿気の強い夜とは心地がうんと異なる。悪夢を見せることのない夜風の方が、見せられる者もそれに寄り添う者も安心して夢を見ることができるのだ。

 そんな夜を越えてやってくる夏の朝は早い。朝日の上昇と共にゆっくりと意識を開花させていくシェーナは、日の出から少し時間が経ってから起き上がる。寝た時とほとんど変わらないシーツを綺麗に畳みながら隣を見やると、まだ眠るヨヴェの姿があった。窓から差し込む日差しを遮るように顔に手を当てているが、その下の表情は穏やかだ。

 ヨヴェを起こさないように静かにベッドから下りたシェーナは、お祈りをした後、裏の畑に向かった。青々しい葉が揺れる中には、朝日を受けて輝く赤や紫の野菜が隠れている。暑さに負けることなく大きくなった野菜は、ヨヴェと共に大切に育ててきたものだ。

 収穫した野菜をかごに入れていると、「やあ」と聞き慣れた声がシェーナを呼んだ。
「朝早くから偉いな。ヨヴェは起きているか?」
 家を挟んだ先にある道に、野菜を抱えるマキラの姿があった。彼も早くに起きて畑仕事をしていたのか、いつもの通り服の裾や足元が泥で汚れている。
 離れていても大きく見えるマキラは、小さいものを威圧するには十分だった。人懐きのよさそうな柔らかい顔立ちだけその圧を柔らかくしているが、彼が作る長く大きな影は、シェーナを簡単に包み込んでしまう。

 シェーナはそそと立ち上がり、首を横に何度も振った。ヨヴェに嬉しそうに話しかける姿は目にしているが、その声がマキラに掛けられたことは一度もなかった。それも慣れたものだと思うと同時に、そろそろ懐いてくれても良いような気がしている。
「そうか。シェーナは働き者だな。これをヨヴェに渡しておいてくれるか?」
 マキラから受け取った野菜は大きく、ずっしりとした重みがある。ぎっしりと詰まった葉野菜を見た時は、開いた口が塞がらないほどの衝撃があった。

 気を付けろよ、と声を掛けながら手を離すと、シェーナの重心が一気に下がる。慌てて手を差し伸べようとしたが、その手が届く前に何とか踏みとどまった。
「大丈夫か? 俺が家まで持って行こうか」
 首を横に振る。まるで言葉を失ってしまったかのように一切口を開くことが無い。わずかに心を抉られながらも、そうか、と笑顔で返すことを忘れなかった。

 背中を向けて家に戻っていくシェーナを見守る。ふらふらと揺れて、風が強く吹けば倒れてしまいそうだ。そんな危うさに冷や冷やしていると、髪が放射状に揺れて彼の顔がこちらに向けられた。艶やかな髪が太陽の光を反射させる。
 確かに視線を合わせてから、シェーナはゆっくりと頭を下げた。ありがとう、という言葉は発さずに。口元がわずかに動いていたことだけは見て取れたが、ありがとうと言っていたのかは分からない。
 丁寧に教え込まれて育ったもんだ──、幼い頃のヨヴェを知るマキラは、彼が育ててきたシェーナの姿に感心していた。きっと自分が育ててもあんな風にはならない、なんて、ありもしない未来の子供の想像に耽る。
 だから野菜を置いたシェーナが戻ってきたことにも気づかず、その手にたくさんの取れたての野菜が抱えられていたことにも、足を突かれてようやく気が付いた。

「おっと、悪い」
「……ヨヴェとじゃ食べきれないから」
「ありがとう、美味しくいただくよ」
 マキラの腕に抱えられた野菜は、どれも小さくなったように見えた。
「お、これは立派だな。中身も詰まってそうだ」
「さっき採ったの。一番おいしそうなやつ」
「俺が貰っていいのか?」
 シェーナは頷いた。全ての野菜を渡し終わると、シェーナは背中を向けて走って行く。やはりまだ怯えられているのだろうか、村の子供は大きい体に寄って集って無茶を強いるが、シェーナはそんな素振りを一切見せない。肩に乗せて歩くことくらい造作もないが、シェーナには何度も断られている。走り去る背中を見ていると、小鳥のような小さな寂しさがこみあげてくる。大きな体には不釣り合いだからこそ、口には出せなかった。

 ふと思い出したマキラは、「待て」とシェーナを呼び止めた。二、三歩進んでからようやく止まったシェーナは振り返り、整った顔でマキラを見つめた。
「最近メルヴァと一緒に遊んでいないのか?」
 しばらくした後、こくりと頷く。メルヴァの家がある林が見える位置に家を構えるマキラは、シェーナの家に向かうメルヴァの姿をよく見ていた。しかし最近はその姿を見かけない。
「あまり家からも出ていないようなんだ。また遊びに誘ってやってくれ。きっと寂しくしているだろうから」
 純粋に心配の気持ちでシェーナに声を掛けるマキラは当然、二人が遊ばなくなった理由を知るはずもない。心当たりのあるシェーナは、表情を曇らせた。

 果実を取りに行ったあの日から、メルヴァがこの家を訪れることは無くなった。窓から覗き込む赤毛の少女は見当たらない。何度もその面影を夢に見て窓へ視線を向けるが、シェーナの名前を呼んでくれることは無い。そこには誰もいないのだから。
 何度もメルヴァの家を訪れようと足を運んだことはあった。しかし、林に入る直前で引き返してしまうのだ。明かりの差し込まない細い道が、過去の路地を想起させるから。

「喧嘩でもしたのか?」
 返事が無いことに疑問を抱き、マキラはそう問いかけた。シェーナもメルヴァも喧嘩をするような性格ではないと分かってはいるものの、突然遊ばなくなったのであればそれなりの理由があるはずだ。
 やはり頷かないシェーナに、マキラは余計に首を傾げる。いくら考えたところで答えが飛んでやってくるわけでもない、いずれ分かることかもしれない、と結論付け、
「ヨヴェによろしくな」
と、来た道を戻る。なだらかな下り坂が続く道のりは、行きよりも体が軽い。

 シェーナとメルヴァが一緒にいることが無くなったことに、深追いをする必要はないと思っている。それは、ヨヴェがシェーナを連れて帰り共に生活するようになったことと、同じことだった。雪が降る中、まだ抱えられるほど小さなシェーナを見せてくれたヨヴェの表情は、とても愛おしいと感じているものではなかった。戦や人攫いが絶えないばかりに、親と生活することができなくなった独り子を拾い育てることは珍しくない。記憶には無いがマキラも元は独り子であり、だからこそヨヴェがシェーナを連れて帰ってきたとき、何も言わなかった。ただ、彼から滲み出るものが愛おしさではなく、何かを決意したような硬い表情だったことだけが、マキラの心をざわつかせた。

「待って」
 背後から掛けられた声に立ち止まる。坂を一歩下る度に左右に大きく揺れる白い服の裾が波のようだったから、思わず目を奪われた。よほど走ってきたのか額には汗が滲んでいるが、お構いなしに駆けてくる。荒くなった息を整える間も作らず、シェーナは言葉を吐く。

「なかなおりって、どうやったらできるの?」




 人の熱気で蒸せかえる街の活気は、日中が一番大きい。
 立っているだけで汗が滲むのは村にいる時と変わらないが、肌を撫でる風が通り抜けないため、火照った体を冷やしてくれるものはない。
 絶えず人の行き交う街の通りは賑やかで、熱気だけでなく聞き取ることの出来ない声にも押されてしまう。久しく見てこなかった街の姿を前にして、シェーナは焼き付けるようにじっとその光景を見ていた。

「やっぱり多いな。街に来るのは初めてか?」
 明らかに硬い表情を浮かべるシェーナに問いかける。この街の外れにある路地がかつてシェーナが暮らしていた場所だが、当時は街の喧騒に目を向けられるほど余裕が無かったため、こんなに人が行き交う場所だと認識していなかった。シェーナの知っている街とは大きく異なっていたため、思わず首を縦に振る。

「やっぱり仲直りをするんなら贈り物だな。なにも渡さずに謝りに行ってもいいけど、きっかけがあった方がやりやすいだろ。メルヴァの誕生日がもうすぐから、そのお祝いがてら仲直りもしてこい」

 ──なかなおりって、どうやったらできるの?
 問うた相手を間違えていないか、マキラは一番に疑問を抱いた。しかし確かに自分と目を合わせてそう言ったシェーナを見れば、間違いではないことは確かだった。
 ヨヴェの方がよく知っているだろうと思い「ヨヴェに聞いてみろ」と言い掛けた。しかし、わざわざ追いかけて来てまでマキラに問うたということは、それなりの理由があるのだろうと思い、何も聞き返さずにシェーナを連れて街を訪れた。ヨヴェが起きたときのことを考え書き置きをしたが、それでも落ち着かないだろうと、家で待つヨヴェの姿は容易に想像できた。

 両脇に店を連ねる通りには、主に雑貨が売られている。たまに訪れるキャラバンが、ここらでは珍しい雑貨を売っていることもあり、その時は今以上に街が賑わうものだ。
 かくいうマキラも街を訪れるのは久しぶりで、やはりこの人混みには慣れないな、と汗で光る焼けた肌を拭った。
「とりあえず軽く見て回って、気になるものがあったら寄ることにしよう。歩けるか?」
 服の裾をぎゅっと掴み、小さく頷く。見上げるばかりの人の中を歩くことの恐怖は、背の高いマキラには分からない。だからこそ、どうすれば安心して歩けるのか考え難かった。ヨヴェのように手を繋ぐこともできないため、はぐれてしまう心配もある。

「シェーナ、少し触れるぞ」
 そう言ってシェーナの脇に手を添えたマキラは、軽々とその体を持ち上げた。声をあげることもできず歯を食いしばったシェーナの目線がどんどんと上がっていく。見上げるばかりだった人々のつむじが見えるようになった時、シェーナはマキラの肩に腰を下ろしていた。不安定な場所であるため落ちそうになり、シェーナは怯えて暴れてしまう。
「わっ、お、おろして」
「じっとしろ、落ちるぞ」
 不安定な肩の上で暴れるシェーナを慌てて抱える。この高さから落ちて怪我でもされたら、一体ヨヴェにどんな顔をされるか。体に手を回すと余計に逃れようと大きく動くが、マキラの力には敵わない。
「ここの方が人ごみに揉まれなくて済むだろ。周りも見えやすいし。暴れると落ちるからな」
 そう言うとシェーナは暴れるのを止めて、マキラの腕にしがみ付いた。そんなところを掴まれたら俺が歩きにくいだろう、と思ったが口には出さず、シェーナの体を支え続けることに徹した。辺りを落ち着きなく見回すシェーナを見て、早めに切り上げることを誓い、通りを歩く。

「店はちゃんと見えるか?」
「み、みえる」
「気になったものがあったら下ろしてやるから、声を掛けるなり頭を叩くなりしてくれ」

 不安げに眉をひそめるシェーナだったが、しばらくすると落ち着いて辺りを見回すようになった。いつもと異なる視界に慣れたのか、心を震わせているのか、読み取りづらい表情を見やる。
 弟がいたらこんな感じだったんだろうか──、肩に伝わる温もりを感じながら、また、あるはずのない未来を想像した。同じ村には一つ二つ年の離れた子供が多くいたが、そんな彼らを見ながら育ったマキラは、自分よりも幼い存在はひどく脆いものだと感じていた。

 マキラが先頭、ヨヴェが最後尾で並んで遊んでいた汽車ごっこ、二人の間に並ぶのは、自分よりも幼い子供ばかりだった。毎日並んで歩きながら、いつか本物に乗ることができたらいいなと期待を膨らませていた。しかし、そんな期待で膨らんだ小さな心は、もう萎んでしまっている。

 自分の後ろに並ぶ子供の数が減っていくたびに、自分が見ているものは夢なのではないかと思っていた。人がいなくなる意味が分からなかった当時は、果ても無く歩いて彼らを探しに行けそうだった。そうしてマキラとヨヴェだけが残った時、覚めない夢が現実になるのだと知った。
 共に憧れを抱いていた子供たちは、子供のまま大きくならない。かつては同じ子供だと言われていたマキラも青年となり、大人となり、老いていく。彼らが叶わなかった「大人になるということ」が、静かに彼らとの差を深める。死んでいった幼馴染、弟のような存在、残っているのはヨヴェだけ。あんなにいたのに、もうヨヴェだけしか。

「──ねえ、ねえ」
 腕を叩かれる感覚に気づき、慌てて顔を上げる。突然明かりをつけられたような眩しさに視界が明滅する。シェーナの声が、後ろから聞こえていた二両目の彼によく似ていた。
「あそこ、あそこに行ってほしい」
 指された方へ向かうと、そこは小さな雑貨屋だった。古くからこの場所で店を構える老婆は訪れた二人に「らっしゃい」とかすれた声を放ち、頭を軽く下げただけで、立ち上がることは無い。

 ゆっくりシェーナを下ろす最中も、彼は一つのものをじっと見つめている。少しも離されることのない視線を辿ると、売れ残りらしい髪留めがぽつりとそこにあった。
 ガラスで作られた花がつけられた髪留めは、日差しを受けて煌めいている。不安定な台に置かれており、人が通って地面を揺らすたびにかたかたと音を立てる。それがまるで花が生きているように見せるものだから、眩しさが際立っていた。

 淡い赤で色づけされた花は大きく、髪につければ十分な存在感を見せてくれるだろう。
「……これ、」伸ばされた指先が花を揺らす。「メルヴァみたいで、きれい」
 ガラスにも劣らぬ、光に満ちた純粋な目がマキラを見ている。

 ──マキラ! あの街に本当に本物の汽車が走っているの?
 夢を見ていた、青く輝く宝石だった。生えそろっていない歯で大きく笑う宝石が、シェーナと重なって、蜃気楼のように消えた。
「……そう、だな」
 消えたものは戻ってこない。宝石の輝きは、ガラスの煌めきは、光が無ければ成り立たない。
「きれいだ」
 彼の言葉を真似ても、彼と同じ子供に戻れるわけではなかった。

 売れ残りだから持って帰りな、と言われて渡された髪留めを、シェーナは両手で包み込むように握って持って帰る。再びマキラの肩に乗ったシェーナは、もう怯える素振りはない。
 街を出て村を目指す。ここなら肩に乗せる必要はないと地面に下ろしてやる。
 広々とした道を歩くシェーナは、指の隙間から見える髪留めを覗き込んでは、頬を緩めていた。

「……今日、どうして俺に頼んだんだ? ヨヴェでも良かっただろうに」
 細く小さな背中に問いかける。シェーナは少しだけくちびるを尖らせた後、小さく呟いた。
「……メルヴァと会えなくて、寂しかったの。でも、どうしたらいいか分からなかった。ヨヴェも気付いてなかったと思う」
「俺が声をかけたから、俺に頼んだのか?」
 頷いたシェーナの瞳がマキラに向けられる。もう何年も向けられることのなかった瞳は、曇り一つもなく煌めいた。
「……たぶんヨヴェは、ぼくを街には連れていってくれない。だから、……ありがとう」

 いまだ絶えない人攫いに腕を引かれたシェーナを助けられる自信がない、そう間接的に告げているヨヴェの想いはきっと、守ることのできなかった家族を想って生まれたものだ。未だに囚われているヨヴェの、窓の外を眺める背中は儚く見える。

 とうに目覚めたヨヴェが落ち着かないあまり立ち上がる頃、彼の知らないところでまた一つ、煌めく。
「メルヴァ、喜んでくれるかな?」

 どうかその輝きに、神の加護があらんことを。


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