見出し画像

【サンプル】かすれもの(短編集)


短編集
「かすれもの」サンプル



【販売場所】

*透子のBOOTH



「きれい」


 教室の隅に花が咲いたようだった。
 いつもは陰鬱とした空気が漂っている窓際の一番後ろ。生徒からすれば特等席であるのに、そこに漂う空気はいつも暗かった。伸びっぱなしの前髪を目の前で揺らし、更に眼鏡を掛けた彼女の瞳を見たものはいないのではと感じるほど目元が暗い。髪を一つにまとめてもまとまりきらない雰囲気を醸しながら、背中を覆いつくさんばかりの一つの束ができている。

 生徒は彼女の名前を呼ばなかった。
 知らないわけではない、ちゃんと白石玲華という名があることを知っている。だからこそ、彼女の名前を呼ばない。とても白石玲華と呼べるほど、見た目と名前が一致していないからだ。彼女が生まれ持った名前とは思えないほど、美しく綺麗な名前だった。
 名前を呼ばれることなく、声を掛けられることもなく彼女が過ごしてきたその席に、近づくものはいなかった。その空気に取り込まれることを恐れたからだろうか。
 強く結ばれた口は授業中でも開かず、何もない机をじっと見つめていた。

 そんな彼女が名前で呼ばれたのは、まさに、教室の隅に花が咲いた日である。

 教室に入ってきた一人の女子生徒は、誰の目にも覚えのない、しかし綺麗な顔立ちをしていた。はっきりと見える二重が目を大きく見せ、高い鼻筋、少し色づいた頬、立体感のある唇、その一つ一つが彼女を美しく魅せていた。窓から窓へ吹き抜ける風が艶のある髪を揺らし、その姿はまるで大和撫子のようであった。

 こんな美しい生徒がいただろうかと全員が目を向けていると、彼女は窓際の一番後ろの席についた。そこはいつも白石玲華が座っている席だ。いつもの雰囲気とは打って変わって、突然季節が動き出したかのように辺りが明るくなる。いつも彼女がそこに座っていてくれたらいいのに、誰もがそう感じたに違いない。

 授業が始まる頃になっても、彼女は白石玲華の席に座っていた。窓の先を見つめ、ただそれだけで絵になる。
 白石玲華は今日休みなのだろうかと思ったころ、一時限目開始のチャイムが鳴った。教室に現れた教師が、「日直、号令」と声をかける。黒板の隅に書かれた名前は、『白石玲華』。男子生徒が今日は休みだと言おうとしたとき、
「起立」
と、透き通るような美しい声がした。いないはずの日直の号令と、聞き覚えのない声に生徒たちは声のした方向へ顔を向ける。そこには、白石玲華の席に座った生徒がまだいたのだ。彼女は立ち上がり、号令で誰も立たない生徒、それどころか自分を見つめる生徒たちに、少し微笑みながら首を傾げた。

 そこで全員が、彼女が白石玲華なのでは、と辿り着くことのできなかった答えに気づいたのだ。

 確かによく見ると、彼女は白石が普段から使用しているかばんを持って登校してきたし、紫色のモップのような変わったストラップもついている。
 普段顔を見たことのないクラスメイトからすれば、以前の白石とは全くの別人に見えていることだろう。よく見れば白石の雰囲気を残している、ということもない。だから、生徒が彼女を白石玲華だと認識する手立てがないのだ。ただ一つ、白石玲華と呼ぶと、彼女が返事をすること、それだけだ。



「め」


 怖い夢を見た。前にも見たことのある夢だった。でも今から思えば初めて見る夢な気がする。今回は弟と居た。前回は、誰と居たんだっけ?

 弟と一緒に村の奥にある霧の先に向かった。何故か森へと続く道に車が列をなしていたから。あの先に何かあるのだろうか? 気になって最後尾の車に声を掛けた。

 この先には何があるの?
 返事は無い。閉じられた窓は暗く、外から中の様子が分からないようにスモークが張られているのだ。とんとんと窓を叩いてみても返事は無かった。だから私は次の車へ向かった。
 どこへ行くの?
 その車は軽トラックだった。荷台には何も乗っていない。こちらは中の様子を見ることはできたが、おじさんは反応しなかった。耳が遠いんだと思った。
 何をしに行くの?
 次々に声を掛けても返事はなく、皆眠っているのかどうなのかもわからない。車が前に進む気配もないし、もしかしたらこの先には何もないのかもしれない。そう思いつつ、もう少し、もう少しと足を進める。弟は何も言わずに私についてくるが、握る手が少し強くなったのを感じて、弟が怖がっているのではと感じた。

 ずいぶん遠くまで来たが、車に乗る人が返事をしてくれることは無かった。小さくため息をついて、私と弟は引き返すことにした。随分奥まで来てしまったが、霧のせいでさしてそうも感じない。

 辺りには変わらず霧が立ち込めており、車の列は霧の先までつながっている。道から外れないよう来た道を戻っている時、とんとんと窓ガラスを叩く音がした。見てみると、一台の車からだった。

 窓ガラスは真っ暗で、その先に誰がいるか分からない。私は話を聞こうと思い、窓を叩き返した。すると、ゆっくりと窓が開いた。そこには誰もいなかった。車の中を見回してみても、助手席にも運転席にも誰もいない。もちろん窓が開いた後部座席にも。私は怖くなったので、早く帰ろう、と弟に言った。すると弟は、いるよ、と言って車を指した。再び車内を見ると、後部座席に人が座っていた。

 俯きがちで全身黒に身を包まれているその人が女性なのか男性なのか分からない。頭からかぶっているローブのようなもので何も分からないのだ。
 ねえ、この先には何があるの?
 そう問うた。すると、その人はゆっくりとこちらを向いた。
 その顔に、私は釘付けになる。
 目はぐりぐりで、黒目のない目で私を見つめてきた。口はにんまりと笑ったままで、ゆっくりとこちらに近づいてくる。他のパーツは暗くて見えない。その人は何も話さない。ただ私の方へ、ゆっくりとこちらに近づいてくる。



「雨の日(仮題)」


 夏のカラっとした空気だとか、夜の蒸しっとした夜風だとか、そういうのを感じるたび、それを伝えたいと思う人は必ず隣にいないから、夏は嫌いだった。今日は天気がいいね、とか、涼しい部屋に行きたいね、とか、あなたの隣でそう言いたいのに、そんな時に限って、私は一人だった。

 ずっと六月であればいいのにと何度願っても、時間は過ぎていくし、それにあなたは、「雨は嫌だなあ」と呟いて私の手を握ってくる。雨が降れば、私はあなたの近くを歩くことができる。いつもより肩を寄せて、たまに肩がぶつけて、風が強く吹けば私を引き寄せて手を握ってくれるから、私はずっと雨が降っていればいいのにと思う。あなたの隣を歩くことができて嬉しいのに、あなたは空から落ちる雨に表情を曇らせていた。

 六月が嫌いなら、私は冬でもいいと思った。雪が降れば、そんな日も私はあなたの隣を歩くことができる。気温の低さも相まって、あなたの体温を感じながら鼠色の空の下を歩く。私は手が冷たいからあなたを温めることはできないけど、今年もあなたと雪を見られたことで私は大切にされているんだなと思うから、またあなたを守りたいと思った。物や行動で感謝を伝えることが難しくて何もしてあげられないけど、隣にいるだけで私は嬉しい。この気持ち、伝わっている?



「今はタバコは好きです、吸いませんが。」


 タバコは嫌いだ。
 体に悪いし、吸うと口が臭くなる。ヤニも付く。環境にも悪いし、最近はお財布にも厳しい。
 そんなものをわざわざ吸う意味が分からなかった。吸うたびに咳き込んで顔色を悪くしているのに、そこまでして吸うべきものなのだろうか。目の下にくっきりと隈を作って、いつ眠っているのか分からない母の姿を見ているのは嫌だった。

「お母さん、タバコ止めたら?」
「……吸っていないと、生きていけないのよ」
 ぽつりと言い、母は煙を吸う。
「体調悪いんでしょ。そんなの吸ってたら、治るものも治らないよ」
「いいの」

 毎日のように繰り返している会話。母はタバコを止めようとはしないし、私も奪い取るようなことまではしない。やせ細った母からタバコを奪い取ることは容易いだろうが、それをできないままでいる。

 目の前の道路を見下ろすことができる窓の先を見つめながら煙をふかす母の背中は、小さかった。骨が浮き出た背中はみすぼらしい。でも、それを美しいと思ってしまう私も私だと思う。タバコを奪えないのも、それが私を止めるからだ。

 小さい頃からずっと見ている姿。父を亡くした私にとって、もう失いたくないものの一つだ。
 空が赤く染まる時間は終わり、藍と空色が交じり合う。背中に影を落とす母から漂う哀愁には、もう慣れた。

「タバコ、臭くないの?」
「臭いよ」
「美味しい?」
「美味しくない」
「じゃあ、なんで吸ってるの」
「吸いたいからだよ」
「美味しくないのに?」
「美味しくないのが良いんだよ」

 よく分からなかった。だから私は近くのコンビニでタバコを購入して、一本吸ってみた。臭いし、不味い。余ったタバコはコンビニの前で吸っていた男に押し付けた。男はいぶかしそうな顔をしたが、渋々受け取ってくれた。
 何も美味しくない。こんなまずいものを体に取り込んで、母は一体何を満たしているんだろう。満たしている部分には、もともと何があったのだろう。

「お母さん、ご飯なにがいい?」
「いらない」
「食べないとダメだってお医者さんに言われたじゃん」
「いいの、お腹空いてないから」
「お腹空いてないじゃなくて。ちょっとでも食べないと」

 少し強めに言うと、母は黙ってしまった。仕方なく二人分の肉じゃがを作る。冷蔵庫から野菜を取り出した後くらいに、「タバコ」と聞こえた。タバコは食べ物じゃない。
 結局肉じゃがは一人分余ってしまった。明日の私の朝ごはんにでもしようと思い、蓋をして置いておく。母は先ほどと変わらない位置でタバコをふかしていた。

「お母さん、そろそろ窓閉めて」
「もうちょっとだけ」
「虫が入ってくるよ」
「大丈夫」
 何が大丈夫なのか分からない。その後母は三十分ほど窓を閉めてくれなかった。夜は蚊の羽音で寝苦しかった。

 体の弱い母の付き添いで病院に行けば、案の定タバコを止めろと言われた。
「薬、ちゃんと飲んでいますか」
「飲むようには言っています」
「言っているだけでは飲んでいることにはなりません。ちゃんと飲むようにしてもらわないと、こちらも困ります。タバコもやめてください、最悪取り上げてでも」
「すみません」
「あなたのお母さんの話ですよ。治す気ありますか?」

 待合室で待っているはずの母はおらず、車に戻るとタバコを吸っていた。どこで買ってきたのだろう、まだ封が切られて間もないタバコが膝の上に乗っている。

「また買ってきたの?」
「うん」
「お医者さんに、タバコは止めろって言われた」
「じゃあ、この箱で最後にするよ」
「ねえ、薬毎日飲んでる?」
「飲んでるよ」

 タバコをふかす母は私と目も合わせない。白い煙を吐き出しながら、遠くを見ている。
薬の管理は母に任せていたので、これからは私がちゃんと飲むときに渡すようにすることにした。一日三回、食後。そのためにも、母にはちゃんとご飯を食べてもらわないといけない。

「お母さん、ご飯何がいい?」
「うん」
「うんじゃなくて。何がいい?」
「いいよ、お腹空いてないから」
「でも、ご飯を食べないと薬が飲めないよ」
「うん」
「うん、じゃなくてさ」

 テレビを見ていた母は腰を上げると、窓を開けてタバコをふかし始める。手には、封の切られたばかりのタバコが一つ。
「お母さん、そのタバコどうしたの?」
「どうもしてないよ」
「このあいだ病院で、あの箱で最後にするって言ったよね」
「まだ残ってるの」
「でも、それ今切ったじゃん」
 返事の代わりに母の口から出たのは、白い煙だった。
夕焼けの空を眺める母の背中は綺麗で、今日もタバコを取り上げることはできなかった。もう少しだけ、このままでもいいと思った。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?