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【小説】風薫る季節の新花

 草木の揺れる音が、寒さを凌ぐ窓の向こうから聞こえてきた。

 ささやかな自然の音で目を覚ましたシェーナは、ベッドに手を付いてゆっくりと体を起こす。少し高い位置にある窓をみやると、朝とは思えないほど淡く明るい青の空が、窓枠一面に広がっていた。

 白いカーテンのような光が差し込み、シェーナの手元を照らす。じんわりと温かくなる手の甲を不思議そうに見つめた後、再び顔を上げた。横顔を撫でる日に目が眩む。

 絵具を溢したような青をぼんやりと見上げ、そこに雲がかかるのをじっと待った。草木が揺れる音が聞こえる。いつか雲も流れてくるだろうと、まだ覚めきっていない頭で考えながらその時を待つ。しかし、窓を横切ったのは、不規則に舞う小さな花びらだった。巣立ったばかりの小鳥の羽ばたきにも似たそれは、季節の訪れを知らせるには十分だった。

「シェーナ」
 先に目を覚ましていたヨヴェは寝室を覗く。捲れた布団の中にシェーナはおらず、代わりに、いつもより少し高く見える後ろ姿があった。台に乗って窓の外をじっと見つめるシェーナは黒い影のように見えるが、近づけば白く照らされた幼い横顔が浮かびあがる。寝起きとは思えないはっきりとした眼は、ゆっくりとヨヴェに向けられる。

「おはようシェーナ。何か見える?」
 そう言って同じように窓の向こうへ視線を向ける。今日の朝日でようやく雪が溶け、青い野が顔を覗かせている。朝露にも似た雪解け水を被った緑たちは風が吹くたびに輝き、瑞々しさを感じられる。

「ねえ、ヨヴェ」
 窓枠に乗せていた手で、ヨヴェの服を引っ張る。
「春、来たかな?」
 いつもより少し上ずった声。その声を聞いた瞬間、そうか、と腑に落ちる。毎年この季節が訪れると、同じ言葉を聞いていた。積もる雪の厚さが無くなっていくたびに、シェーナはこの季節の訪れを待っていたのだ。

「そうだね、春が来たよ」
 今年も二人の元に、春がやってきた。



 朝食は後で構わないと告げたシェーナは、いつもより落ち着きがない。お祈りさえ忘れてしまいそうだったシェーナと共に手を重ねた後、これまた忘れていそうだった靴を履かせる。足裏に合わせて削った木を底に敷いた布を足に纏わせ、甲で紐を結ぶ。そろそろ足の大きさが合わなくなってきた頃だが、今はそんなことを気にせず外へ駆け出したくて仕方が無い。

 不格好に結ばれた紐を揺らして解けないことを確認してから、再び窓の外へ目を向ける。絶えず聞こえる風の音に落ち着かず、体のシルエットを隠す大きめの衣装が細かに揺れる。上下一繋ぎの白い衣装は、この村で暮らす者たちが身に着けている。風が吹いて衣装がなびく姿には、心奪われるような儚さがある。

 寝癖の付いた柔らかい髪を整えた後、少しだけだからね、と念を押す。
「朝食の準備をしておくから、あまり遅くならないように」
「うん。いってきます」
「いってらっしゃい。気を付けてね」
 うん、と静かに頷くと、淡く白い光の溢れる外へと消えていった。降り注ぐ日差しを手で遮りながら、徐々に慣れていく目で風景を認識していく。

 目の前に広がっているのは、雪の下で眠っていた鮮やかな緑あふれる村の姿だった。昨日までの白い風景とは一変し、目の眩むほど色彩豊かだ。
 一晩のうちに春が訪れたように感じられるのは、毎年のことだ。この辺りは雪解けの時期が遅く、雪の下で先に草木が芽吹いてしまう。その為、雪が溶けた途端に春が訪れたように感じられるのだ。
 そんな一晩のうちに変わってしまう風景に、毎年心を躍らせている。大きくはしゃぐことのないシェーナも、この時だけは一人で駆け出すのだ。

 石を埋め込んで作られた緩やかな坂道を登っていく。蛇のようにうねる道を小走りで駈ける姿は、白い衣装もあって妖精が森へ帰っていくようにも見えた。この辺りに妖精の逸話が多いのは、白い衣装を身に纏った村の子供たちと見間違えているのではと言われているが、シェーナの後ろ姿を見れば間違えてしまうのも無理はないと思わされる。
 うねる道も慣れたように進んでいくシェーナの視線は、辺りで芽吹く花々に向けられている。鮮やかだが優しい色合いの花は、突然訪れた春にも驚くことなく花を開かせている。

 ささやかな風に揺れる色とりどりの花の一つ一つを見つめていく。アヤメ、ナノハナ、シロツメクサ、名前を思い出すことができるのは、どれもをヨヴェが教えてくれたからだ。初めて春を見た日、これまで見ていた風景が嘘だったのかと思うほど眩しく、信じられないほど惹きつけられた。右を見ても左を見ても天井を知らぬほどの輝きを放つ風景は、ずっと冬だったシェーナの心をいとも簡単に溶かしてしまった。あの冬から、抜け出せた気がしたのだ。
 絶え間なく吹いてくる風に揺れる草木が、心地よい音を立てる。それは、春の訪れを喜んでいる声にも聞こえた。
 そんな声に嬉しくなって、シェーナの道を駆ける足は止まらない。

 やがて道がなくなると、辺りは林へと変わる。木の葉の隙間から降り注ぐ光のカーテンを掻い潜りながら、日に照らされた緑が放つほのかに熱を帯びた匂いを全身に浴びる。

 実りの時期になると様々な果実が売れる果樹園も、今はまだ緑が顔を覗かせているだけだ。いつか丸々とした果実を溢れるほどに実らせるのを想像すると、まだ小さな実さえできていない果実の味が口いっぱいに広がるようだった。その度にとくりと、シェーナの心臓にある小さな実が揺れる。

 木の葉が揺れると波打つ光は、誘う様に奥へ奥へと消えていく。
 幾重にも重なる白いカーテンを追いかけて林を抜けると、そこに現れるのは見渡す限りの草原だ。標高数百メートルもある山々が小さく見えるほどずっと奥まで広がる青い野は、大きな海原のよう。風で野草がなびくと、波のように押し寄せる。穏やかな時など一切ない、しかし、目の前の海原はどれだけ荒れ狂ってもシェーナを襲うことは無いのだ。

 青い空と緑の野を目にしたシェーナは、呼吸さえ忘れてその光景に見入った。初めて見る光景ではないのに、何度見ても冬を越えた後の草原には目を奪われる。

 体を小さく丸めながら過ごす白い季節が、早く色づけばこの寒さも消えていく。この村に来るまで暖かい春の季節を知らなかったシェーナにとって、この風景は救いといっても過言ではなかった。
 シェーナを冬から連れ出してくれる、暖かい風が、頬を撫でる。
 ずっと、この時を待っていた。
 目の前にその風景が広がるだけ心穏やかになる、優しい胸の鼓動の名前をシェーナは知らない。それでも、何度もその鼓動を求め続けた。

 知らない町の春の香りを運ぶ風は、山を越えて村にやってくる。一体どこの町の春なのだろうか。まだまだ知らない風景が、あの山の奥にずっと広がっているのだ。未知の風景は想像することができない。鼻いっぱいに吸い込んで体に取り込んでも町の様子は見えないけれど、どこの町でも春は心を満たす。
 この村の匂いも、どこか遠くへ運ばれていくのだろう。
 ──この村の春は、どんな匂いがするのかな。
 試しに鼻を動かすが、特別良い匂いが鼻をくすぐることは無い。いつもと同じ、土と酸味のある匂い。それに加えて今は、青々とした草や花々の新鮮な匂いが広がっている。この村の春とは、そういう匂いがするのだ。

 頬を緩めていたシェーナに、一陣の風が吹きつける。山を越えて野を駆けて、シェーナに全身でぶつかった風は服の裾から入り込む。余裕のある服を膨らませて肌を撫で、全身を包み込んだ後、首元から抜けていく。竜のように空へと舞い上がると、体を捻らせて村へと下っていった。その姿を視認することは出来ない。しかし、竜が従わせるいくつもの花弁が鱗のように煌めき、竜の体を形作っていく。
 下って行った竜を追いかけて見、すぐにそれはヨヴェの元へ行くのだと気付いた。
 追いかけようと林へ体を向ける最中、シェーナは風に揺れる一輪の赤い花を捉える。風になびく大きな花びら、──それは、ふわりと浮き上がる赤毛だった。

 瞬間、目を奪われる。背景に広がる青い空も、緑の草原も、点々と咲き乱れる花々も、全てが色褪せてくる。少女が持つ柔らかな赤毛は、意思を持っているかのように優雅に揺れている。

 ビー玉を埋め込んだような大きな瞳が、シェーナを見つめる。緩やかに表情を変えた少女は、
「おはよう」
と、柔和な笑みを向けた。青にはっきりと浮かぶ赤を持つ少女はシェーナよりも少し背が高く、大人びているように思えた。とても同い年には見えないほど凛々しさも持ち合わせた目元には、小さなほくろが三つ、星のように並んでいる。
「……おは、よう」
 ヨヴェと挨拶するときのことを思い出しながら、おそるおそるそう返す。村の人と会う時は近くにいつもヨヴェがおり、その陰に隠れて挨拶をするので精いっぱいだ。広い草原の中でたった二人、隠れる場所はなく、突き抜けるような空が二人を見下ろしている。不安げなシェーナだったが、笑みを浮かべてさらに目を細めたのを見て安堵した。

「あなた、シェーナって言うのよね?」

 確認するように少女が問う。シェーナは静かに頷いた。そうすることでしか意思を告げられないのだ。ヨヴェがいない中でどうやって話せばいいのだろうか。知っている言葉は、春の訪れを喜ぶあまり、シェーナの元からいなくなってしまった。かさかさと音を立てる音が、一瞬にしてシェーナをあざ笑っているように思えてならない。僕らがいないと何も話せない。帰って来てほしかったら、捕まえてごらんよ。そんな声が聞こえてくるようだった。
 そんなことない、と言い返すことができるわけではないが、何か言ってやりたくて顔を上げる。眉頭を下げて睨みつけるが、草木はより大きな音を立てて野を駆ける。こわやこわやと冗談めきながら逃げていった。

「わたしのこと、知ってるかしら」
 大人びた口調で話す少女は、目を瞑っていればすらりと背のある女性と話しているような心持ちになる。シェーナがヨヴェの言葉を真似して大きくなっているように、この少女も、近くにいた大人の姿を見て育ったのだろう。
 シェーナはじっと少女を見つめた後、ゆっくりと頷いた。名前は知らずとも、この赤毛を一度見て忘れるはずがない。
「……青い屋根の、メルリア」
 村の誰もがそう呼ぶ、村で二番目に大きな家の名前。
「そう」少女はさらりと言う。「わたしの名前はメルヴァ。メルリアはわたしの母様の名前なの。だからみんな、そう呼んでいるのね」

 初めて知った事実を頭に巡らせて、記憶の倉庫にしまいこんでから頷く。誰もが当然のように呼ぶ名前の意味を知らないまま覚えているものは多い。
 しかし、あの家を出入りする大人の姿を見たことは無かった。小道を進んだ先の木に囲まれた場所に立っている二階建ての家は、村の中でも一番二番で新しく、洋風な装飾が施されている。
「何回かヨヴェと一緒に行ったことがあるから、知ってる」
「そう、ふふ」思わずといった様子で笑みをこぼす。「シェーナも春が好きなのね」

 豊富な体毛を携える野生動物のようなふわふわとした赤毛が、風と共に踊る。小さな体が引っ張られてしまいそうなほど量のある髪には癖があり、踊る度に不規則に広がる。その予測できない動きや広がり方に、どこか春の訪れを感じていたシェーナは、ふと、その理由に気が付いた。

「……わたげ」
 微かに聞こえた声に、メルヴァは言葉を聞き返す。
「メルヴァの髪の毛、わたげみたい」

 シェーナは近くで揺れていた綿毛を、飛んで行かないようにゆっくりと摘み取って、メルヴァに差し出した。強い風が吹けば簡単に空へ飛んで行ってしまう白い綿毛が集まり、丸い形を作り出している。中央でしがみ付く黒い粒だけが命綱だ。

「ほら、これ」
 揺れる綿毛を見つめるメルヴァは不思議そうな顔をしている。僅かに眉間にしわを寄せたメルヴァだったが、すぐに表情を緩めた。
「でも、わたしの髪はこんなに綺麗な白色じゃないわ」

 透いた黒い瞳が、灰色に濁った。赤と共に際立っていた瞳の輝きが少し消えたことに気づいたシェーナだったが、それが何を意味するのかは分からなかった。
「赤も、きれいだよ?」
 だってこんなにも美しい赤を持っているのに。
 至極当然のようにそう言ったシェーナの言葉は、ただただ真っ直ぐにメルヴァに刺さる。心の底から滲み出た濁りのない湧き水のように静かに溢れていく。

 メルヴァはその言葉に俯いた。なんと返せばいいのか分からない、そう迷う姿はまだ言葉をたくさん知らない年相応の子供に見えた。
 うねる髪を何度も撫でて見つめる。どれだけ梳いても言うことを聞いてくれない。指を通せばすぐに引っかかってしまう。
 天使の輪のように日の光が揺れるシェーナの髪は、シルクのように細く柔らかい。くわえて、うねりを知らぬほど真っ直ぐだ。

「……シェーナには分からないわ。こんなぼさぼさの髪の毛、この村にはほかにいないもの」
「ぼさぼさなのは、いや?」
「嫌よ。纏まらないし、寝癖みたい。素敵な大人はみんな、真っ直ぐで艶のある髪をしているの。シェーナみたいにね」
 少し考えてから、顔を揺する。頭の上でさらさらと髪が音を立てて揺れているのが分かった。メルヴァが欲しいのは、ふわふわと揺れる髪ではなく、さらさらと音を立てる髪なのだ。

 顔を逸らしたメルヴァは、今はどこにもいない母の姿を思い浮かべた。空の上にいるなんて言うけれど、見上げてもただ青い空が広がっているだけだ。

 風の走る音が大きく聞こえるようになったころ、でも、とシェーナは口を開く。
「……メルヴァのこと、すぐに見つけられなくなる」
 え、と声を漏らし、シェーナへ視線を向ける。野へ視線を巡らせたシェーナは途端に駆け出すと、何かを掴んで戻ってきた。
 手元には、赤いチューリップの花が一輪揺れている。

「赤くて大きいから、すぐに見つけられる。遠くにいても分かる。ぼくはまだ小さいから、いろんなものに隠れて見つけられないかもしれないけど、メルヴァが赤いままでいてくれたら、すぐに見つけられる」

 そう言って、花を差し出す。一枚一枚大きな花弁が集まってできた赤い花は、遠くからでもチューリップだと分かった。顔を上げれば、野にはいくつもの赤い花が浮かんでいる。青よりも、黄色よりも、どの色よりも際立つその色は、メルヴァが持つ髪と同じ色だ。

「ぼくは、赤い花も好き。これはね、絶対に飛んでいかない。だから、メルヴァにあげる」

 二人の間を走った風が、全ての春をかき集めたかのように暖かく、花の薫りで溢れ返った。それに気付いたのは、メルヴァだけだ。
 春の風に抗いながら伸ばした小さな指先で、花を受け取る。途端に大きく揺れた花が落ちてしまわないように強く、しかし折れてしまわないように優しく、茎を握った。
「……ありがとう」
 頬を綻ばせたシェーナは、黒くとも美しい花だった。



 家に戻ってきた途端、腹の虫が鳴き出した。部屋に溢れる朝食の匂いにつられるように着席すると、ヨヴェが皿を並べる。
「春には会えた?」
 ふわりと浮かんだのは赤い綿毛、──のような髪が印象的なメルヴァの、差し出したチューリップを見つめる横顔。
「うん。会えたよ。ふわふわしてて、暖かかったんだ」
 満足げに笑みを浮かべたシェーナを見つめるヨヴェが、村の子供と初めて言葉を交わしたことを知るのは、まだ先のこと。

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