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【サンプル】今は近くに。ANOTHER


2022.01.16 第六回文学フリマ京都 新刊
「今は近くに。ANOTHER」サンプル
 教師と生徒のBL短編集。少し暗めです。
 純愛と書こうとしたけれど純愛では決してなかった。



【販売場所】

*透子のBOOTH



「遼遠の恋人」


 普段から綺麗にしている部屋に掃除機をかけ、籠った空気を入れ替えるために窓を開ける。高い空を飛ぶカラスの声は、今朝から心が落ち着かない今井に向けられているようだ。スリッパを履いて手すりに凭れると、背中から風が吹き込む。横髪が頬をかすめると同時に、白いカーテンが柔らかく広がる。誰もいない室内に落ちる影と風が交わり、掃除機では落としきれない汚れを連れ去っていくのが見えた気がした。
 これで満足したわけではない。しかし、これ以上手を施してもどうにもならないし、何より時間がない。落ち着いて出迎えるためにも、今はゆっくりと、彼がインターホンを押すのを待つのが良いだろう。
 冬の高い空を見上げながら、彼の来訪を待つ午後一番。深く空気を吸い込み、口からゆっくりと吐く。つま先で地面を叩きながら、手すりに肘をついて目の前の道路を見下ろす。横切る自転車を目で追い、歩く人がいれば彼らの会話に耳を澄ませる、もし二十歳に満たない男の子らしき人物が視界に入れば、心臓を一跳ねさせてからゆっくりと顔を確認する。それの繰り返しだった。
 風で乱れた髪を整え、今井はスリッパを脱いだ。部屋は随分と冷え切ってしまったので、暖房をつけることにする。嫌につんとした空気が落ちる部屋は、先ほどよりも綺麗な気がした。
 テレビをつけると、昼のニュースが流れる。最近流行しているインフルエンザは全国で感染者が増加傾向にあるという。猛威は今井が勤務する高校でもちらほらと現れ、注意喚起されるほどだ。
座布団を置き、少し乱れた布団を整える。布団から湧き上がる匂いに鼻を立たせ、それから小さく頷いた。一瞬何を思ったのか分からず、口を結んだ後、首を傾げて目を覆う。他意が無いと言えば嘘になる。そんなことを考えてしまって、さて、これから会う彼に昔、どのような気持ちで会っていたか分からなくなってしまった。
 お茶でも飲もうと台所へ向かう最中、インターホンの音が部屋に響く。壁に掛けられた時計は、一時半過ぎを差していた。彼が先日連絡してくれた時間だ。
 のぞき窓に目を近づけると、やはりそこには、癖毛を揺らす彼が見えた。扉を見つめ、開くのを待っているようである。
 今井は一息ついてから、鍵を捻る。ゆっくりと扉を押すと、首を傾げ微笑む西垣がこちらを見つめていた。
「いらっしゃい、西垣くん」
 西垣を見つめ、はにかんだのち、そう声を掛けた。
 白のパーカーに黒のジャンパーというラフな格好をした西垣の首元はとても寒そうだった。学生の頃はマフラー姿をよく見ていたので、少し珍しいと思いながら彼を見つめる。ボディバッグの肩掛けを握りながら、「こんにちは」と言う。
「外寒かったよね、入って」
 さらに扉を開け、入ってくるよう促す。西垣は「お邪魔します」と小さく言ってから、一歩を入れる。
「先に座ってて。お茶を出すから」
 そう言って西垣の背中を見送り、台所に置いていた常温のお茶を掴む。コップ二つをおぼんに乗せて向かうと、西垣はちょこんと机を前に腰を下ろし、テレビを見ていた。
「バッグ下ろしたら?」
 そう声をかけると、西垣は素直にバッグを肩から外し、隅に置いた。
 コップにお茶を注いで渡すと、「ありがとうございます」と言って一口飲んだ。テレビから流れるニュースはインフルエンザから時事に変わり、評論家が口を並べている。今井はテレビの音量を下げ、「最近どう?」と話しかける。
「環境が変わって、だいぶ慣れてきたころかな?」
「そうですね。バイトも慣れて、落ち着いていますよ。勉強は相変わらず難しいですけど」
 コップを机に置き、西垣は続ける。「先生は変わらず、ですよね。今の時期だと、もう学校祭も終わって落ち着いている頃ですし」
「そうだね。今年の文化祭はクオリティが高かったよ。二年生の演劇は、どこも圧巻だった。西垣くんは遊びに来ていなかったんだっけ」
 一息ついてから、「はい、ちょっと忙しくて」と答える。そっか、と小さく呟けば、部屋には沈黙が広がった。西垣はお茶を口に、今井は先ほど下げたテレビの音量を上げる。別の番組をとチャンネルを回すが、今の時間帯はニュースしかしていない。諦めてリモコンを机に置き、今井は口を開く。
「今日寒かったんじゃない? マフラー、付けて来なかったんだね」
「そんなに寒くないかなって思ったので置いてきたんです。でも、外を歩いてみたら案外寒かったですね」
「体調管理には気を付けないと。今の時期インフルエンザも流行っているからね。西垣くんの学校でも流行ってる?」
「はい、マスクをしている人がほとんどです。も、ってことは、高校でも流行ってるんですか?」
「ちらほらと、だけどね。田中先生覚えてる? 今週インフルエンザで休んでるよ」
 そう言うと西垣は、「そうなんですか、風邪とか引かなそうなのに」と笑った。
 テレビから漏れる笑い声を聞いていると、西垣の笑いが乾いているように思えた。話の空気で笑っているだけ、心から笑っているように聞こえない。テレビに映る人物があまりにも楽しそうに笑うものだから、そのように錯覚してしまっているのだろうか。今井は、頬を掻いた。
 そんな今井を見た西垣は、口を開いたり閉じたりしながら視線を外す。
 再び訪れた沈黙は、もう耐えきれるものではなかった。
 二人の間に流れるのは、この季節相応の肌を刺すような北風、とまでは言えないが、しかし、春風と言うには明るさが足りない。暖房をつけたはずなのに、部屋の中は窓から入ってきた風とは別の冷たい空気が漂っている。



「不確定で不安定で不幸せな未来の話」


「結婚したんだ」
 その一言を言うのに、何か月掛かっただろうか。君と再会した時から、いつか言わなければならないと感じていた。
 
 曖昧なままで終わってしまったこの関係を修復するかのように現れた君は、他の誰よりも美しかった。ライトアップされた街に引けを取らない、あの時、ずっと見つめていた横顔に、心臓は確かに反応していた。初めは分からなかった、何故こんなにも彼に目が行くのか。どこか儚げな彼の表情は、あの頃の面影を残してはいなかった。それでも彼が彼だと分かったのは、きっと、香りだ。彼が放つ甘い香りが、僕を引き寄せていたのだろう。まるで花に吸い寄せられる蜜蜂のように。
 人ごみで彼を見失わないように、僕は懸命に彼を追った。あの時とは、立場が全く逆だ。僕は追いかけられる側だった。でも今は、追いかけている。今を逃せば、もう本当に、二度と君には会えないと思ったから。
 その予感は実際合っていた。彼は一週間後に東京へ飛んだ。東京へ行けば、きっと僕と君は会えなくなるだろう。街ですれ違うこともおそらく無い。
 もう離したくなかった。あの時のように、後悔で咽び泣く日々を過ごしたくない。
「いつか東京に来てください。その時は、俺がご馳走しますよ」
 君はそう言った。あの時から変わらない、妙な落ち着き。自信に溢れた言動と言うのか、まるで未来が見えているかのような姿勢。
 変わらないね、君は。
 僕は頷く、「楽しみにしているよ」。
 それから僕は、何度も君を抱いた。それはもう、気が狂いそうなほどに。夏と冬に帰省するのを見計らって休みを取り、君を街へ連れ出した。あの時過ごすことができなかった時間を取り戻したかった。君は犬のように僕にひょこひょこ付いてきて、その度に啼いた。君のその顔が愛おしかった。あの頃見ることができなかった表情に、恍惚としていたのかもしれない。
 そんな日々の中で、僕は見た。君が、君より少し小さい女の子と歩いているところを。それは秋の日の事だった。君が帰ってきていることを知らなかった。僕に何も言わずに、帰ってきていたのだ。



「記憶」


「いつか思い出したら、会いに来て」
 手渡された封筒を見れば、あの日のことを思い出すようだ。
 
 ──何を思い出したら、ですか?
 ──思い出したら分かるよ。その時まで、待ってるから。
 入院していた時に偶然知り合った彼は、自らを『先生』と名乗った。先生と呼んでくれればいい、と。まるで夏目漱石のこゝろのようだと思ったけれど、口にはしなかった。
 先生は知り合いのお見舞いに来ていたらしかった。
 初めて出会った時、僕は長い間眠っていたせいで体の筋肉が衰え、歩くことでさえ一苦労だった。点滴スタンドを杖代わりに廊下を歩いていたが、慣れないことなので足元はだいぶふらついていた。
 トイレに行くだけなのに、汗が滲んでくる。担当の医師も、ゆっくりリハビリをしていきましょう、と言っていた。ゆっくり、ということは急いでやるには大分タイトなものになる、ということなのだろうか。
気長にやっていきましょう、急がなくても大丈夫ですから。
その言葉が、より焦りを生み出していた。
 体が万全の状態になってから始めていきましょうね、と医師は言っていたが、正直待っていられなかった。どうやら僕は一カ月以上も眠っていたらしく、目を覚ます可能性は低いと言われていたようだ。
目を覚ました時、母は涙を流して僕を抱きしめた。
「良かった、本当に良かった……」
 こんなにも強く抱きしめられたのは、幼いころ以来だと思う。もう離れないようにと後頭部に手を回し、場所もはばからず涙を流す母の姿に、その時は理由が分からずとも申し訳ないと感じた。背中に手を回せば、母は線が切れたように大きく声を漏らして泣いた。
 のちに聞いた話、僕は交通事故で意識を失っていたらしい。歩道に大型トラックが突っ込み、僕の他に子供と若い女性が巻き込まれたが、彼らは軽傷で済んだようだ。
 全身打ち身と至る所の骨折。歩けるようになるのは当分先の話だと言われた。
 一か月間眠ったのちの治療。窓から見えた桜は散ってしまった。
 ここからさらに時間をかけて、元の生活に戻るためのリハビリをしていくことになる。どれくらいの時間が掛かるのかと調べてみると、怪我の具合にもよるがおおよそ三か月から六か月かかるようだ。
 六か月の時間を、ふいにすることになるのか。
 大学に通っているが、もちろん単位を取ることなどできない。二年に上がった心地もないまま春が終わり、夏が訪れ、秋が深まろうとしている。実感の無いままに時間を奪われてしまった。名前も顔も知らない、誰かに。
 ふつふつと湧き上がってくるのは、怒りよりも先に焦りだった。この時間をないがしろになんかしたくない。一年の頃、懸命に勉強していた。難しい内容でも、友人に聞いたり、深夜まで参考書とにらめっこをしたり、時には教授に直接教えてもらった。
 しかし今、積み上げてきたものは簡単にてのひらからこぼれていく。受け止めても受け止めても滑り落ち、風に乗って消える。学んだことはこれほど簡単に無くなってしまうほど儚いものではなかったはずなのに、身体から擦り落ちていく感覚が止まらないのだ。
 少しでも早く復帰を目指そうとベッドから足を出した時、目を疑った。最後に見た足よりも細い。まるで別人の足を付けられているような、不思議な感覚。使わない間に筋肉が落ち、骨とわずかな肉と皮だけになってしまった足で立とうとすれば、ふらついてしまう。慌てて近くの壁に手を付くが、持ち手が無くそのまま崩れてしまった。
 呆然と足を見つめる。触れれば、確かに触れられている感覚はあった。
 間違いなく、これは僕の足だ。
 自分の息が荒げる音で我に返る。額に触れれば、汗が滲んでいた。これは疲労による汗ではない、きっと、焦りだ。
 その日からリハビリまで、僕は何度も病室とトイレを行き来することにした。少しでも早く元に戻れるようにという意志もあるが、それ以上に、動いていないと落ち着かなかった。ベッドにいると嫌でも布団越しに自分の足に目を向けてしまう。一枚めくれば、華奢な脚が姿を現す。異質さに気になり、手を伸ばそうとするが、寸でのところで手を止める。
 駄目だ、見るべきではない。
 ベッドにいるから気になるのだ。歩いていれば、そうすることに必死で細い脚なんて気にならない。
 それに、歩かなければ筋肉は付かない。
 僕はスタンドを引っ張り、病室を出た。静かな廊下に、からころと音が響く。階段の上り下りはまだ難しいので、この階を用もなく回る。慣れてきたら、階段を下りて外を歩いてみよう。日の光も、風も、窓からしか感じられなくなった。まず、窓を開けなければ感じられない、そこに行くまでも一苦労だ。外が恋しいだなんて、思ったことなかったのに。
 早く、早く、こんなものが無くても歩けるように。
 焦る気持ちが災いしたのか、点滴の線が足に絡まってしまった。一瞬ふらつきを抑えられたかのように思えたが、スタンドを握る手が滑り、敢え無く転んだ。
 腕から点滴が外れ、無理やり取れたせいで血が滲んでいる。顔面の衝突は免れたが、今の体では起き上がるのも精いっぱいだ。
「っつ……」
 血の滲む腕を握り、息を吐き出す。ぴりぴりとした痛みと、重い身体が圧し掛かり、すぐに起き上がれない。早くしないと誰かに見られてしまう、これ以上余計な心配は掛けられないのに。
 息を整えた後、ゆっくりと両足を曲げる。このまま上半身を上げれば、とりあえず一難は去るだろう。
 体に力を入れて起こそうとした時、腰に誰かの手が触れた。
「大丈夫?」
 ふわりと体が軽くなる。身体に力を入れずとも、すんなりと上半身を上げることができた。
 倒れているのを見つけて駆け寄ってきた看護師だろうか、顔を上げると、男性は再び、
「大丈夫?」
と、問うてきた。服装から看護師でないことは明らかだった。誰かのお見舞いに来た通りすがりだろう。
 癖のない髪を少し乱れさせた彼は、僕の目をじっと見つめてくる。
「大丈夫です、ありがとうございます」
 彼は少し言葉を詰まらせたが、「そっか、なら良いんだ」と言った。
 病室まで彼に付き添ってもらった。始めは申し訳ないので断ったのだが、「見過ごせるわけないよ」と言われ、厚意を受け取ることにしたのだ。外れた点滴はナースコールで呼んだ看護師に付け直してもらった。引っかかって外れてしまったんだと言うと、
「それにしては血がたくさん出てますね。気を付けてくださいよ」
と、注意されてしまった。
 病室を去ろうとした彼を呼び止め、椅子に座るよう促す。
「少しだけ」
 そう言うと男性は微かに笑い、「うん」と頷いた。



「はっぴいえんど」


 見惚れていたテレビの端に表示された時間を見て、私は慌てて立ち上がる。いつも家を出る時間より十分も過ぎてしまった。急いでいかないと、遅れてしまう。
「あまりにもテレビに集中してるから、今日は時間が違うのかと思ってた」
 どうして声を掛けてくれなかったのかと言えば、座っていた母から飛んできた言葉。ちらりと父へ目を向ければ、新聞を睨みつけていた。いつもより深く入った額のしわを数えれば、三本。奇数だから、今日は不機嫌。私が出かける日はいつもそうだ。
 夕ご飯はいるの? と問う母に、いる、と返してからリビングを出た。
 お気に入りのスニーカーのつま先で地面を叩きながら、姿見に目を向ける。ヘアアイロンで整えた髪に指を通せば、広がりも簡単に消えた。ニットのワンピースの裾の折れを直せば、あとは問題なし。
「いってきまーす!」
 いってらっしゃい、と母の返事を聞いてから、玄関の扉を開ける。
 一歩出れば、冷たい風が身を包む。冬の寒さを感じさせる空を見上げれば、吐き出した息が白く溶ける。持って出てきた上着を急いで羽織るが、隙間から入る冷たい風が、先ほどまでの温もりを連れ去っていった。
 スマホで時間を確認すれば、集合時間までぎりぎりだ。私は冷たい空気を切る。
 足を速めれば速めるほど、頬が突っ張っていく。喉が水分を無くして、ひりひりと痛みを伴う。小さく息をついて足を止めれば、体が熱も持っていることに気づく。少し温かい。
 目的地まであと半分と来たところで時間を確認すると、約束の時間。
 彼とのメッセージボックスを開いたとき、画面が切り替わる。『智宏』という名前が大きく映し出されたその下にある、緑色のボタンをスライドさせる。
「もしもし」
『もしもし、おはよう』
「おはよう。ごめんね、今向かってるの」
『そっか。寝坊してるのかと思った』
「ちいくんとデートの日はいつも早く目が覚めるから、寝坊はしないよ」
 電話の向こうで、智宏が笑っている。あと十分くらいで行くね、と言えば、気を付けてね、と返ってきた。電話を切り、早足で彼の元へ向かう。
 集合場所は、いつもと同じ、駅前の広場。いつも私が座って待っている場所に、今日は彼がいた。木製のベンチに座る彼の背中にゆっくりと近づき、その目を隠す。
「誰でしょう」
 少し声を低くして言う。彼は少し悩んだ後、「この声は伊万里だね」と、呟いた。そして目を隠している手に触れて、
「この手は伊万里」
 ゆっくりと手を剥がすと、逃がさないように強く握られる。振り返った彼は私を見て、
「ほら、やっぱり伊万里だ」
と、笑顔を向けた。彼が握った手をぐっと引っ張るので、至近距離で笑顔を浴びてしまった。ぎゅっと掴まれたように心臓が跳ねる。
「……遅れてごめんね」
「いいよ。いつも待ってる伊万里の気持ちが分かったから」
「いつも待ってないよ。私が来た時にちいくんも来るから」
「そのわりには、いつも顔が赤いよね」
 そう言って私の頬に触れる。乾燥した肌では、彼の指が羨ましい。だからこそ、触れられるのが少し恥ずかしい。彼は楽し気に、何度も肌に指を滑らせる。肌と肌が立てる音が、乾燥を明確に告げていた。
「冬と夏は分かりやすいからいいね」
 にこりと笑むと、行こっか、と立ち上がる。
 寒い中で待っていたというのに、智宏の手は温かい。温もりを求めて強く手を握ると、ぐっと引っ張られ、すぐに手が柔らかい空気に包まれる。
 彼のポケットの中は、こたつのように温かい。その理由は、中を探ればすぐに分かった。かしゃかしゃと音を立てるカイロが、中を温めていたのだ。
「また忘れてきたんでしょ?」
 せっかくあげたのに使わないんだね、と彼は言う。この間彼から貰ったカイロは、タンスの上に置いてある。封は開けているので、忘れているわけではない。学校に行くときはいつもポケットに入れているし、たまに家にいる時も握っている。
 デートの時に握るのは、カイロじゃなくて智宏の手がいいから。
 なんてことは少し恥ずかしくて言えなかった。えへへと誤魔化すように笑えば、「まあ、伊万里の手が握れるから良いんだけど」と、手に指を絡めた。少しも照れる様子を見せない彼だけれど、耳が赤くなっている。
「ねえ、これは寒いから?」
「寒いからだよ」
 本当のことを言わないように結ばれた口を見て、思わず笑ってしまう。
 冬はいいね、と言う彼に、私も冬でもいいかな、と返す。
 耳が赤くても、彼を見ていれば分かってしまう。恥ずかしいのなら言わなければいいのに、でも、言ってくれて嬉しかった。
「私も、ちいくんの手が握れて嬉しいよ」
 だから私も、そう口にした。頬が燃えるように温かい。
 彼はじっと私を見ているが、すぐに視線を外してしまった。誤魔化すように笑って見せると、目の前が暗くなる。同時に鼻腔を差したのは、智宏の匂い。唇に感じた柔らかいものは、いつも智宏がくれるものだ。一回、唇を食んでから、ゆっくりと離れていく。そうすれば、智宏の顔にピントが合う。じっと見つめる目が、私を捕らえて離さない。
「……人に見られるよ」
「誰も見てないから大丈夫」
 ちらりと視線を回せば、智宏の言う通り、辺りに人の姿はなかった。朝早いわけでもないのに、辺りに人がいないのは不思議な感覚。少し歩けば、大きな街があるというのに。
「ほら、行こう」
 そう言う彼に引かれて、私たちは街へと向かう。




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