「先生、書いてないよ」-「国語教育」は「言語教育」なのか?

1 はじめに
 「日本語教育」と「国語教育」は、違うものなのか、どのように異なるのかなどが議論されることがある。現に、当サイトでも、「京すずらん」さんが本年3月12日付けの記事「あまりにも突然に、国語教育へ足を踏み入れた私」で、日本語教師が国語の指導を依頼された戸惑いを述べている。
 私も、外国出身の子どもから国語の指導を頼まれたことがある。しかし、学校の国語の試験問題などを見ると、「国語教育は言語教育」なのだろうか、また教科名として「国語」という言い方は、適切なことなのだろうかと疑問に思う。

2 「他人の気持ちを忖度する」のは、「言語教育」か?
 私がそのような疑問を特に強く感じる時は、試験問題で「主人公、あるいは○○さんの気持ちはどうか?」などとたずねる問題を見た時である。実際に、2021年度の東京都立高校の入試では、国語の大問題3番の(問1)で、「(前略)このときの美緒の気持ちに最も近いのは、次のうちではどれか」と問われている。
 この種の問題を外国出身の子どもに解かせるとどうなるか。私は次のような経験をした。
 それは、外国出身の中学生に小学4年の国語の教材「ごんぎつね」を読ませた時である。ご存知のように、これは非常に有名な教材で、朝日新聞の「教科SHOW」2007年6月21日付けによれば、すべての教科書会社がこの教材を収録しているそうである。
 日常生活の日本語を習得した中学2年生にこの教材を読ませて最後に、「兵十がごんぎつねを射殺した後で、栗やウナギを持って来てくれていたのは、ごんぎつねだと知った時に、兵十はどんな気持ちになったか?」と発問した。生徒は即座に「先生、書いてないよ」と答えた。「本文に書かれていないことについてなぜ質問するのか」という態度であった。
 「他人の気持ちを忖度して、互いに暮らしやすい社会を作る」というのは、「道徳教育」の領域ではないのか。もちろん、「道徳」は「学校の教育課活動全体」を通して取り組むべきこととなっているので、学習活動に道徳教育の要素が入るのは理解できる。
 実際に道徳の時間が教科化される時に、「国語教育と道徳教育は、どう違うのか」が議論された。小学校の学習指導横領の第2章 各教科 国語の1 (7) には「(前略)道徳の第1に示す道徳教育の目標に基づき、(中略)関連を考慮しながら(中略)、国語科の特質に応じて適切な指導をすること」と書かれているので、このことから国語教育と道徳教育とが重なり合う部分があると文科省もみなしていることが分かる。
 しかし、厳正な評価が求められる入試で、「他人の気持ちを忖度する」問題が出題されるのを見ると、「国語教育」は、「言語教育」と「道徳教育」との違いが意識されずに展開されているように私には思える。

3 教科名の「国語」は、現在の日本にふさわしいのか。
 自国の言語を「国語」と読んでいる国は、他にあるのだろうか。
 文化庁の第22期の国語審議会の記録では、「国語」と言うべきか、「日本語」と言うべきかが議論されたようだ。その記録では、自国の言語を「国語」という言い方をしているのは、日本と韓国だけだそうである。
 言語政策は、その国が考える「国の在るべき姿」を体現していることがある。
 一部の欧米メディアの報道によれば、中国政府は中国の新疆ウイグル自治区で、いわゆる「漢化政策」を進めて、ウイグル族の人々に強制的に中国語を学習させているそうだ。「ひとつの中国」を掲げる中国政府にとっては、国民全員を中国語話者にする必要があるのだろう。
 我が国の歴史を見ても、「皇民化政策」により、朝鮮半島や台湾で日本語を強制した時期がある。
 しかし、今の日本は「外国人との共生」や「多文化共生社会」の実現を掲げている。日本は「国際人権規約」や「児童のための権利条約」を批准しているので、外国人の子どもにも、「初等教育を受ける権利」を保障しなければならない。これにより、日本の学校に外国籍の子どもも就学しているのである。
 詳細は別稿で述べるが、日本語教育や外国人支援に携わっている人でもこの点を正しく理解していない人が時々いる。外国籍の子どもの保護者は、日本の学校に子どもを就学させる「義務」はないが、外国籍の子どもでも日本の学校で初等教育を受ける「権利」はある。本人・保護者が希望すれば、義務教育の学校は外国籍の児童生徒を受け入れなければならない。この根拠となるのが、前述の条約である。この点について文科省も通知を出しているが、別稿で詳しく述べることにする。

4 終わりに
 今まで述べたように、今日の日本の学校は、「多文化共生社会」にふさわしい市民を育てる役割だけでなく、外国出身の子どもに初等教育を施す役割も持っている。グローバル化の進展によって、日本の学校教育の役割も、日本国民への教育だけでなく、多様な背景を持つ子どもも教育するというように、役割が広がっているのだ。
 このような状況の中で、日本語ネィティブだけを教育の対象としているかのような「国語」という教科名を使うのは適切なことなのであろうか。
 また、文章を読んで他人の気持ちを考えさせるような試験問題は、「子どもたちは、同じものを見て育ち、同じ感じ方をする」という前提の上に成り立っているのではないだろうか。
 このような「国語」の教育が、日本国籍の子どもも外国出身の子どもも共に「多文化共生社会」を担う市民に育てあげるのに貢献できるのだろうか。「国語」の教育に対する考え方を変えていく必要があると私は考えている。

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