見出し画像

勉強ができることと頭がいいことは違う

ぼくはこれまで、勉強はそこそこできました。中学受験を経て名門校と言われる中学に入学し、そのまま高校へ進学。大学受験は第1希望ではなかったものの、それなり以上の国立大学に進学しました。

でも、ぼくは、「勉強が得意」なだけでした。

小学校低学年のころから勉強をすることが楽しかったので、同学年の子たちがゲームやスポーツに明け暮れている中、勉強に励んでいました。ぼくにとって勉強はやらされてしんどいものでも、やってて偉いものでもなんでもなく、ただただ、野球少年が遊ぶことよりずっと野球をしているように、勉強が楽しくて夢中だった、という感じです。

すくなくとも大学に入学するまでは。

大学に入学して、専門性が高くなり、新しい知識を入れていくことはとても楽しかったものの、「まだ解明されていないもの」に対してロマンは感じても自分が関わりたいと全く思えなかったのです。

ぼくが好きだったのは「答えのある問」に対して「答え」を出し「正解」を得るという「勉強」という名のゲームでした。

ぼくにとっては「勉強」しかやってこなかったことがコンプレックスなのです。というと、すごく嫌味のように聞こえるかもしれないけれど、ぼくがずっとやっていたのは「ゲーム」でした。学習成績は良かったので、自分でも最近まで気づかなかったし、あまり理解してもらえないけれど。

ぼくが好きなのは、「正解」を得る達成感でした。人生には答えのあることのほうが少なすぎました。人生は答えのない問ばかりで自分が立てた仮説や選択を正解にする作業。仮説検証も苦手なぼくは、仕事が苦手だなと思っていたけれども、仕事どころか、生きることも下手なわけです。

「答えがない」ということを頭ではわかっていても、ふとした瞬間に答えを求めてしまいます。「ぼくがやったらうまく行かないことでも、違う人がやったら正解にたどり着けるんだろうか」と考えてしまったり、自分の言動を振り返ってとてつもなく消えてなくなってしまいたいような気持ちになったりします。

白黒思考、0/100思考をどうしてもしてしまい、完璧なんて求めなくていいってわかっていても、完璧じゃなかったら0点と思ってしまう自分もいて、完璧じゃなくていいと思った瞬間に100点を目指さない自分がいるのも許せなくなってしまいます。

だからメンタルが死んでしまうことがわかっているので、意識的に「完璧なんてないんだから」と思うようにしているわけなのですが、多分まだ抜けられてないようです。人生一生修行です。

この世にはぼくの代わりはいないけど、上位互換が転がっている。


たにぐち

最後まで読んでいただきありがとうございます。