#2 ペッパーズ・ゴースト 著:伊坂幸太郎

おいおいおいおいおい!前回の記事、あれだけ書いたと思ってたのに、たった1800文字程度!文字数がすべてじゃないけど、たった1800文字!そんな情報量の少ない記事、だれが読むんだよ!?
届け、僕の想い!あなたの頭の中に残るような一文を!
がコンセプトの「教師の本棚」ですよ!?

まぁ、そのくらいにしておいて。
どうもヤマダです。
連投ですが、下書き自体は別日に書いています。

今回は、伊坂幸太郎さんの「ペッパーズ・ゴースト」を読みました。
何を隠そうヤマダ、伊坂幸太郎の大ファンなのです。新刊が出るたびにワクワクしながらページをめくってきました。
今回、主人公が教師というのもあり、変な感情移入しながら読んでました。冒頭の生徒指導のシーンとか読むと、この先生いい先生だなーなんて思いながら読んでました。ちなみに、逆ソクラテスの時も思ったんですけど、最近、伊坂先生教育に興味あるんですかね。なんとなくデティールがしっかりしてるなー。教育の本質的なとこ書こうとしてるのかなーなんて思いながら読んでました。

そして、今回のPG(ペッパーズ・ゴースト)は、伊坂エンターテイメント小説のいいところ全開!
あたま空っぽにして、おもしれ―ってビール片手にニタニタしながらひたすら読んでいられるタイプの本でした。
個人的には、フィッシュストーリーと同じくらい好きです。
フィッシュストーリーがどのくらい好きかは内緒です!!

個人的には、ニーチェの「ツァラトゥストラ」の永劫回帰の思想が絡んできたあたりから面白さが加速してきました。

正直、人は同じ人生を無限に繰り返す。っていう思想って恐ろしいですよね。ニーチェの「神は死んだ」の言葉に象徴されると思うんですけど、中世の伝統的なキリスト教的世界観の中で生きてきた人たちにとって、運命論って絶対だと思うんですよね。すべては神の意志で決定されていて、私たちの身に起きる出来事は超自然的な神の視点から意味が決定されているっていう考え方。それが衰退してきたときに、人々の精神的よりどころなんてなくなっちゃってがたがたになると思うんですよ。それこそアイデンティティが揺るぎだすくらいに。

たとえるならば、超教育ママのもとで育てられた子どもが大人になったときに母親の教育方針の正当性が実はなかったってなったら、人格がたがたに揺らぐ・・・・みたいな・・・・

決して、これは僕自身の経験談ではないのであしからず。フィクションです。

でも、その中で、ニーチェが言ってる(この本に出てくる)「すべてのそうだった」を「自分がそう望んだ」に変えるっていうのは、一見ハードに見えるんだけど、その実、すべての精神的態度を自己決定することができるんだぞっていう可能性を示していることでもあると思うんですよね。

できごとは、全部自分が望んで起きていると仮定するならば、あなたがそれに対して、どう向き合って、何を選択していくかもあなたが選んでいいんだよみたいな。

・・・すみません、ニーチェはまだ読んだことないんです。
見当違いなこと言ってたらすみません。ちゃんと、今度読みます。

でも、すべてが神様が決定する中で、運命論に縛られたルサンチマンを生み出すくらいなら、喪失された神に代わって運命の全権を握っている自己として人生を歩むことの方がはるかに建設的だし、永劫回帰の思想を乗り越えられると思うんですよね。「よし、もう一度!」って思える可能性は絶対に後者のが高い。

だからこそ、PGに登場する人たちの選択に至るんだろうなと思うんですよね。

最近、西田の幾多郎さんの「善の研究」を読み始めたんですけど、(相当、ちんぷんかんぷんで苦戦してますが)、幾多郎さんの実在としてこの世界のありよう(純粋経験)の中から主観が、世界の見え方を決定している的な考え方って素敵だなって思うんです。

あなたが見ようとしている世界がこの世界のあり様なんだっていう。そして、そのあなたの見ようとしている意思も大きく見たら世界のありようなんだっていう。

一は全。全は一。的な。

話がそれましたが、世界って見方1つでありようが変わってくると思うんですよね。それが、永劫回帰をの乗り越える方法っていうか。

世界は僕らの手の中に・・・みたいな?

すみません。だいぶ暴走気味に書いたんですけど、幾多郎さんも中途半端に読んだとこだし、ツァラトゥストラなんてまだ読んでもいない中での話になってしまいました。

話を戻しまして。。。何はともあれ、PGこれだけ書いちゃうほど面白い本でした。
何より、世界のありようは主観で変えられる。からこそ、他者が今どう世界を見ているのかに寄り添っていくかはすべての人にとって課題ですよね。他者が見ている世界と私という人間が見ている世界は違う。からこそ、すり合わせをしなければ、少しの理解も歩み寄りも生まれないわけで。客観的世界なんてものが存在しないと仮定するならば、僕たちは、相手の見ているものは全然異なるものを見ているという前提に立てば、ほんのちょっと歩み寄れたり、理解できたりするのかな・・・なんて・・・・思いました。

ヤマダでした!あ、今回は2000文字超えた!

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