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「古典は本当に必要なのか」雑感

昨日の件のシンポ、ネット中継で観戦していた。べつに教育屋でもないのでここに書くのは詳細なルポではなくメモ程度の備忘録として。

狭い意味での高校や大学での学校教育に与するものではないので、この場で主張された内容の、どちらかのサイドにつくつもりはない。古典は古典で残るだろうし、学校組織だけが古典を占有できるものでもない。また古典が学校教育から消えたからといってただちに国際競争力がアップされるものでもない。「古典」をめぐる言説や幻想や欲望が現在どのように存在しているのか、その議論の枠組みは何なのか、ということを観測する場として見物した。

まず、古典否定派(高校の必修科目でなく選択科目、それも芸術科目として扱えばよいとする)は、今日の世間に堆積する古典不要論をかなり意識的に代弁ないしは戯画的に演じたのだろうということは見ていえる。その点で肯定派はいきり立って個人の否定に走るべきではない(実際に人格否定のようなことがネット上で起こったと聞くが、そもそもそのような事態が解釈のかなり象徴的といえる)。

否定派の猿倉氏の論理としては、古典を必修から消して、その時間をディベートやプレゼンの基礎となる現代日本語リテラシーの向上に充て国際競争力をアップさせればGDPや個人の生涯年収が増えてよいという由。このあたりは何が論拠となっているか不明の感はあるが(古典を消せばなぜGDPが増えるというのか)、世間一般の生活感覚としてはこんなものだろうと確かにうなずける。エビデンスベースドの議論で、他者だの言語だの何をやっているのか不明な人文学、とくにその基礎であり本丸でもある古典領域にナタを入れようという気概が見える。まあ公共に関するものすべてを透明化しようとするこのへんの考えには「正義」の感覚もあるのだろう。ある意味これが一番厄介ともいえる。

また否定派のほかの論点としては古典の現代語訳ベースでの授業、文法重視の授業の見直しといったことが挙げられていたが、その点では肯定派との一致も見ていたようだ。

古典の時間の代わりには、現代日本語のリテラシーを身に着けるための時間に充てればよいと否定派はいう。国語の時間で議論やディベートの方法を学ぶようにしろというのはよく聞かれるところだが、それを集約して代弁しているような感がある。こうした議論やディベートの方法はユニバーサルなもので普遍的なものだというのだが、さすがにそれは幻想というものだろう。そのような言論のルールは時代によって変わるし、おそらくアカデミックな場での議論を一番に想定しているのだろうが、世の中すべての「議論」とされるものが一つの方法だけで成り立っているものでもないし、アカデミックでのそれだけをドミナントなものにすべきでもないし、またそうならないだろう。

このような、議論やディベートだといった日本語の「論理」的な側面に光をあててそれを学ばせよといった論がここまで大手を振って主張されると、文学的なアイロニーやレトリックといったものが軽視されている、そもそもそれをなくそうとしているのだなとおもう。言語の透明性への信仰。すべてのものはわかりやすい方法や言語のアルゴリズムとして可視化されるべきといった主張は、グレーバーのいうような「官僚制のユートピア」のもとでの言語の在り方といえるだろう。古典をめぐる言説はその視点からまず分析されたほうがよいのではないかとおもう。圧倒的に「文学性」が干上がってきた時代のこうした言語は、いや「文学性」を見るまなざしの否認といったほうがよいか、「ポスト心」をめぐる今日の精神分析的状況のいったんを明かしているのではないかと感じる。これまで「心」を形作ってきたレトリックが消滅しようとする時代。そのようなことが否定派の論理からはおもわれた(猿倉氏は政策的意図的に日常の日本語を簡易化すべきという旨の発言もしていた。いずれにせよ文学的言語のプレゼンスの圧倒的低下はまちがいない)。

古典肯定派の渡部氏は、古典を共生を感じさせるものと定義し、それは主体が幸福に生きるための知恵を授けるものだとする。それを語る渡部氏の議論の運びはおもいきり授業的でなかなか面白いとおもったが、これが否定派に伝わったかというとかなり微妙な感じもする。こういう授業的なものこそ古典否定派は辟易してきたのだろうなと窺わせられたから。しかしこのようなかたちで古典の面白さを伝える方法を開拓しようとしているのだなということは、シンポジウムの語り口でも感じたし、普段の授業でも実践されているそうであり、より聞きたいとおもった。

渡部氏の論調は、他者や幸福といった古典のヒューマニティーズ的側面を強調することで、人間にコミットせよといっているように聞こえた(渡部氏はすべての学問は人間にかかわるものだといっていた)。いささか道徳的というか学校ありきの論の運びだなあと感じさせられて、実はこうした語り口こそエスタブリッシュメント層向けのものであり、それを前提とする以上、官僚制にも親和的だろうなとおもわせられた。なぜ古典のメリットを肯定的に語るとき、こういう語り口は出てくるのか、そこをよく考えた方がよい。いずれにせよ、こうした古典の人間性の強調は、否定派が一番辟易するところであろうし、それがイヤだから人間の外にあるカネなどの数値の話をしているのだと言われたら何も言い返せないだろうなとおもう。ポスト心の時代で必死に人間性の再縫合をしているように、古典肯定派の議論は聞こえた。

官僚制のなかの「古典」。ポスト心の時代での人間をめぐる古典利用の攻防。個人的にはこの二つの枠組みでの分析をすることが必要だなとシンポを聞いての感想が残った。まあいずれにせよ古典で肯定否定これだけ盛り上がるのは結構なことだし、そうした議論の場が設定できて忘却されないうちはどうとでもなるだろう。それは学校という場をたいして信じていないからでもあるし、もっと学校をめぐる制度の話をしなくてはいけないだろうとおもうから。ある意味学校での教育の話をしている限りコップのなかの嵐という感は否めないし、その制度がひとつの幻想に基づいていることにも気づけない。古典をめぐる幻想の横断的分析が肯定否定を超えて必要だろう。

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