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カードキャプターさくら展感想記

思い出すように書くが、先日六本木ヒルズの森アーツセンターギャラリーで開催されていた「カードキャプターさくら展」に行ってきた。

年来の作品ファンだったのでかねてより一目見ようと思っていたが、どうにか会期最終日に駆け込んで見物することができた。現在、東京展は終了しているが、大阪での展示が予定されているという。

展示内容自体は公式サイトや、また展示のほとんどが撮影許可されていたこともあり各種SNSで広く紹介されているとおりなので、それについてはここでは詳しく触れない。

お客の方はといえば、若い女性を中心としつつ男性もそれなりにおり、またカップル、家族連れと広い層が訪れていて和やかな雰囲気があった。また最近における作品の海外進出も手伝ってか、アジア系外国人の方もかなり多く見かけられ、改めて『さくら』の世界的人気がうかがえるような印象をもった。

†「作品の社会的価値」

さて気になったのは、この展覧会が開催されるにあたって公式側からこのようなメッセージが寄せられていたことである。

「なかよし」(講談社)でカードキャプターさくらの連載が始まったのは、1996年(平成8年)のことでした。

これまでにない表現やアプローチで、単なる1つの少女漫画としてではなく、漫画界の歴史に名を残す作品の1つとして、長く世界中の人々の心を掴んできました。可憐な姿。強い心とやさしさ。そして、信頼。

作品史上最大規模となる今回の展示では、そんなさくらの世界観にじっくり浸ることができるのはもちろん、私たちの心を魅了し続けるさくらがどんな価値観を伝えてきたのかなど、作品の社会的価値を伝えていくことも目的としています

この美術館に、どんな魔法がかけられていくのか。あなたの目で、確かめてみてください。

(引用は公式サイトによる。強調部分は筆者)

『さくら』は20周年を迎え新シリーズが連載執筆されたことを皮切りに、新作アニメの放送、ファングッズ生産、そして今回のような各種イベント開催など、目まぐるしいほどの展開が日々おこなわれている。

そのなかでも、これが初めてであると断言はできないが、メディア展開の企画のほうからはっきりと「作品の社会的価値」を認識、それを名指し、伝達すべき使命的なメッセージとして打ち出したことは、『さくら』の作品生成史、および受容史において稀有なことであり、また画期的なことであろうとおもう。少なくとも、ここまで『さくら』へのアクセスを社会的にはっきり関係づけ宣言する姿勢を目にしたことがなかったので、私はかなり驚いた。それは明らかに、作品がリバイバルとして展開され、また作品外において様々な価値観が激しく変遷している社会的状況を背景にしたこの現在時を迎えてこそ、選ばれ書かれた言葉のように感じられた。

†自由愛のベクトル

だが、「作品の社会的価値」とは何なのか。それは、『さくら』における「好き」という親密的、肯定的価値観を表明する言葉にかかわっているといえる。展示の一番目の解説パネルにはこう記されていた。

『カードキャプターさくら』の世界の「好き」は、一般的に少女マンガで描かれる「恋心」とは少しだけ異なります。相関図からも分かる通り、さくらの登場人物たちが織り成す人間模様は実にさまざま。性別や、社会的立場、年齢、国籍、種族などには一切関係なくただ相手のことを大切に想う、そして想い合うという大きな意味での「好き」のかたちが物語のなかで自然に、そして丁寧に描かれています。

それは新シリーズでも受け継がれており、「さくらちゃんの世界はやさしい」と感じる大きな理由の一つとなっています。決して誰も阻害されることなく、壁を感じることもなく、みんなで信じ合う。さくらの物語には、そんな生き方が、やさしく表現されています。

(引用は筆者の撮影した写真の書き起こしによる。強調部分は筆者)

ここにある通り、またファンには馴染みのことだが、『さくら』の登場人物における「恋愛」関係、広く言えば親密圏のあいだでの愛情的やりとりや交渉は、「好き」という肯定的な価値観を伴う言葉をカギに繰り広げられる。この言葉には人物の内面、感情をほぼ絶対的に表現し伝達する役割が担われている。そしてその言葉が承認され交わされる限りの関係において、人物のジェンダーやセクシュアリティの差異はごく自然なものとして相互に受容され、肯定的に反復される『さくら』において「好き」という言葉で認め合う関係には、他者や社会的規範、それに付随する「壁」は存在せず、お互いの存在が強く肯定されるのである。

ジェンダーやセクシュアリティにおける他者との差異のなかで差別のない平等な関係を求める権利運動の波がようやく広がりつつある現代で、『さくら』が表現する「壁」のない「好き」同士の関係は、思う人物と親密な関係を築きたいと願うどのような人に対しても、その存在や感情を強くエンパワーメントするものであるカードキャプターさくら展が打ち出す「社会的価値観」とは、このような「好き」の言葉が表現する、お互いの差異を認め親密的感情を自由に求める関係の肯定といってまずよいだろう。

そしてこのような「好き」に関する肯定的なメッセージを打ち出すことは、『さくら』における「好き」のノーマライゼーション的運用と呼ぶことができる。この作品の論理では、ジェンダーやセクシュアリティといった自分や他者の属性、立場にかかわらず、誰もが自由な意思でパートナーを求め親密的に承認し合うことができる。作品のこうした志向を「自由愛のベクトル」としておこう。

人のあいだの差異を認めたこのような肯定のあり方は、まちがいなくいまという時代に呼応している。『さくら』の現代的意義をそのような承認の関係の提示と考えるファンも多いことだろう。事実、SNSではそうした声を多く見ることができる。

『さくら』が、誰に対しても平等で肯定的なエンパワーメントを含む作品として時代のなかで受容され、その限りにおいて社会的なメッセージが作品展のようなかたちで表現されることは納得できる。どのようなジェンダーやセクシュアリティ、社会的立場におかれていたとしてもお互いにそれを承認し肯定し合う自由な社会が訪れることを私も願っているし、『さくら』がそのようなメッセージを含む作品であり広く受容されていることを一人のファンとしてとても喜ばしくおもう。

だが、『さくら』における「好き」の関係は、そうした全肯定的で「自由愛のベクトル」のみに代表されるものだったろうか。そうである、と私は言い切ることができないのだ。ナイーブに「社会的価値」がある、とは言いにくい論理がこの作品にはあるのではないか、そうおもうのである。はたしてそれはどういうことだろうか。

†「一番」の論理

ここからはより原作作品の解釈にかかわる話である。それは、『さくら』本編のさくらと雪兎の「恋愛」にかんすることだ。

主人公であるさくらは、物語の最初から、そして話が進展した相当程度のところまで、兄・桃矢の友人である雪兎に恋愛感情――片思いの――を抱いていた。だがその思いは破れることになる。しかしそれはどのようにしてであったか。恋心を告白したさくらに雪兎はこう答える。

雪兎「…ぼくも さくらちゃんが好きだよ」
  「でも…さくらちゃんの一番はぼくじゃないから」
さくら「…え?」
雪兎「さくらちゃんお父さんのこと大好きだよね?」
さくら「はい」
雪兎「ぼくのことは?」
さくら「…好きです」
雪兎「その気持ちは同じじゃない?」
  「お父さんが大好きな気持ちと/ぼくを好きだと思ってくれてる気持ちすごく似てない?」
さくら「…似てます」

(引用は『カードキャプターさくら⑩』講談社、1999年による)

この後、結局さくらは周囲の導きもあり、小狼を「ほんとうに」思う新たな「一番」として選ぶことになるが、この場面で雪兎がさくらの「一番」は自分でないという言葉で示すのは、さくらの気持ちが家族への愛情と類似したものであると教示することで親密的感情のなかの恋人/家族の立場を峻別し、前者のような立場におもわれる人間を選ぶことこそが正しいことであり、「ほんとうの一番」なのであると暗に措定する態度である。ここで雪兎はさくらに隠微な「感情教育」を施しているわけだ。

雪兎は「さくらちゃんのこと子供だと思ってはぐらかしてるんじゃないよ」と述べはする。雪兎もまた自らが思う「一番」が存在し、論理上それは一人でなくてはならない。よってさくらは受け入れられない。それを知ったさくらは雪兎に対する家族愛とは異なる感情を自覚しつつも、身を引くことになる。「一番」は「一番」でありその領域を他者が侵犯することは許されない。雪兎がさくらに指示=意味づけするのは、こうした「一番」の論理をめぐる親密的感情のヒエラルキーのあり方である

もちろん、この恋愛にかかわる「一番」の論理は他者の排他的否定をただちに、そして完全に意味するわけではない。さくらと雪兎との関係は兄を媒介としながら家族の圏域を再構築し、寛容な親密圏を拡張することに結果的に成功する。そうしてここではまた、「好き」の関係が肯定的に機能し、新たな「自由愛のベクトル」が発現することになるのである。

だがしかし、この「一番」の論理は、物語で繰り返される「ほんとう」という語彙と隣接して描かれることで、自らにふさわしい「ほんとうの一番」のようにおもえる人物がどこかに存在し二人は結ばれなくてはならないという論理を作品に用意する(それはもちろんCLAMP作品でおなじみの「物事にはそうなる必然的理由がある」という超自然的なテーゼと親和的であり、それが「ほんとうの一番」の論理を用意しているというべきだろう)。事実、たとえば魔法の行使に必要なクロウカードの創造主であるクロウ・リードは面倒な手段を取ってまでそれを所有するにふさわしい新たなカードの「主」を作ろうとする。いうまでもなく、一人しかいない「主」とは「一番」の変奏である。それは、クロウがこの作品に作り出した「一番」の論理の源流である。

†運命愛のベクトル

つまりどういうことになるのだろうか。このような、自らにふさわしい「ほんとうの一番」が存在するという論理は、それがどんなにソフトで寛容な形で現れようとも、人物と人物を必然的かつ閉鎖的に結びつける「運命愛」のような感覚と思想(古い言葉で言うなら「オンリーユー・フォーエバー」とでもなるだろうか)を喚起する。そしてそれこそ『さくら』に描かれたもう一つの「好き」の関係の志向である。これを「運命愛のベクトル」としておこう。

「運命愛のベクトル」は、自らに対応する「ほんとうの一番」がいるという思想から成り立っている。当然「ほんとう」という言葉が意味をもつのは、それにかなわない「にせもの」を排除することによってである。だから、「ほんとうの一番」にかなわない「にせものの一番」は席を譲るほかない。たとえば「一番」ではないと宣告されたさくらの雪兎への片思いの気持ちがそうであったようにである。この作品では「運命愛のベクトル」の志向は片思いのような愛の感情と決して相容れないのである。

だが、それは必ずしも悲嘆するべきものではない。なぜなら前述したようにそのような片思いの感情は自ら新たな親密圏の関係を構築し、「自由愛のベクトル」へと変容することができるからである。『さくら』の「好き」の論理は、単線的な運命を伴ったものではなく、異なる方向へと進む力を持っている。

†二つの志向の想像力

まとめよう。『さくら』には「好き」という言葉で表わすことのできるような関係がある。それはお互いの立場や属性によらない承認と肯定を示す「自由愛のベクトル」と、引き合うただ一人の運命的なパートナーが存在することを示す「運命愛のベクトル」という二つの方向性を持っている。この二つのベクトルは、ある一つの性の方向が立場や属性で固定化されず自由なあり方が肯定されているとしても、それはただ一人のふさわしい運命的な相手の前に破れ去るというふうに、衝突を起こすものである。実際、さくらの雪兎への片思いはそのようにして「運命愛のベクトル」の前に破れた。しかしこうもいえる。そうして恋心に破れたはずのさくらが雪兎と新たな関係を築くことができたように、「自由愛のベクトル」と「運命愛のベクトル」は必ずしも衝突を繰り返すものではなく、二つのベクトルはお互いを補完して新たな生の方向へ導くことができるのだと。

どういうことか。それが含意するかもしれないところを最後に短くメモしておこう。「運命愛」が一つの非合理なファンタスムにしか見えないように、実はそれが反照する「自由愛」も、どんなに理想的に見えたとしてまた一つの非合理なファンタスムに過ぎないのではないだろうか――『さくら』が描く世界は、そうした恐ろしいような、しかし根底的な愛に関する現実を示しているのではないだろうか。だがそれは必ずしも愛が虚構でありイデオロギー的に解釈されるものではない。そうではなくて、そのファンタスム同士が照射する光の屈折から、これらを結ぶ新たな愛の現実が生まれるのではないだろうか。そこから先の論理は、また別に書かれなくてはならない事柄である。

『さくら』はこのように複雑な愛の方向性が示された作品である。それは肯定的なユートピアとして描かれる愛だけでなく、もう一つのありうる失敗、非合理性としての愛のゆくえをも見届けなくてはならない。この作品からもし伝えるべき「社会的価値」を見ようとするならば、肯定と承認の論理が取りこぼす暗い領域を見捨ててはならないのではないか。そうおもうのである。

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