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第7話 千円分の笑顔

セクション1 仏教の教えに挑戦

知ってましたか?『情けは人の為ならず』

「安易に手を貸して、甘やかされた相手が成長できないのは良くないから、厳しくしないといけないよ。」ということですね。

...よくある誤用です。本当の意味は知っていましたか?

「他人に施しをしたら、立場変わってそのひとがまた誰かに施しをする。それが繰り返されて、回りまわって自分に施してくれる人が出てくる。だから良いことをするのは、他の人のためじゃなく自分のためなんだよ。」

見方を広げてくれる有り難いお言葉でした。

でも本当にそうですか?お世話が連鎖しても自分にループしてくるとは限らなくないですか?自分から全然離れた場所で循環してるかもしれません。そんなのを知ったときには僕は嫌な気持ちになります。

ということで人間らしく、煩悩のままに現世の話をしましょう。<セクション2>で考え始めましょう。

セクション2 先パイの奢り

前からずっと気になってた事がありました。先パイと飲みに行った会計のタイミングです。後輩である自分も、譲れません。「いえいえ、そんな。奢ってもらうなんて申し訳ないです。自分も出させて下さい!」

押し問答になった末に先パイの決めの一言。「君も後輩に同じようにしてやってくれ」と。

#007-01 君も後輩に

これが解せませんでした。いや、慣習や体裁はわかるんです。確かに便利な言葉なんだけど…気になるのは理論上の構図のことです。

#007-02 先輩から後輩へ

僕なら奢ってもらったなら、奢ってくれたひとに報いたいです。それは「また行きましょう、次回はぜひ自分に持たせてください!」という約束かもしれない。あるいは仕事のやる気と成果で示すのかもしれない。

でも「後輩に同じようにしてやってくれ」と言われてしまったら、その先パイに直接に報いたい気持ちが宙に浮かんで落ち着きません。もちろん人によっては「ただ飯ラッキー!」となるでしょう。人によっては律儀に覚えていて、一年後に『後輩に奢るという約束』を果たすでしょう。

僕が何を思ってこの構図についてモヤモヤするのか。それは、『転送を呼びかけられ、次々と継がれていく。』構造が想起されたからです。

つまり脈々と引き継がれることで、広義の『チェーンメール』になり得ることへの抵抗感です。

<セクション3>では類似の例と合わせて考えます。

セクション3 ソーシャルメディア時代のリレー①

社会・世間・コミュニティの空気感から、約束を果たさないといけないと重責に思ってしまう人がいるのは確かです。流されるひとはきっと自身の主義が固まっていないので、同じ言葉を次のひとにリレーするんじゃないでしょうか。一方で良くも悪くも、いや悪くも良くも我が強いひとはスタンスを譲りません。

少し前のことになりますが『アイス・バケツ・チャレンジ』というのがありました。ALSという難病の研究と患者支援のために、発信力のある著名人も参加しました。一種のパフォーマンスをして広く病気を知ってもらうものですが、指名されてバケツをかぶったら今度は次のひとを指名します。氷水の代わりに団体にへの金銭の寄付を選ぶこともできました。自分がチャレンジを果たした後に、仕組みとしては「次の3人」を指名していくものだったようです。

#007-03 マルチ

最近コメンテーターとして大活躍している2ちゃんねる開設者のひろゆき氏が、当時を振り返って話をしているのを見ました。いわくこういう事だそうです。

「『アイス・バケツ・チャレンジはやりますけど僕はだれも指名しません』って言って回ってきたのを止めるっていうのをやったんです」

そうは言ったものの当時の動画を見ると、ひろゆき氏は結構ノリノリでバケツを被ってました。<セクション4>は記憶に新しいもう1つのケースです。

セクション4 ソーシャルメディア時代のリレー②

2020年には『おむすびリレー』がありました。今やSNSも発達が進んでいます。新型コロナの感染拡大と人間同士の繋がり。どちらも『結ぶ』というダブルミーニングだったみたいです。

大物有名人の間でもバトンが継がれ、お笑いコンビ千鳥のノブがおむすびを握るインスタを上げました。ここで予想外の展開が。

#007-04 おむすびリレー

指名された後輩芸人、お笑いコンビかまいたちの山内が無言の無視をしたのです。ノブが何度かくり返しインスタで呼びかけるものの無視を決め込んでいるため、芸人界隈、芸能界でも様子が判らずに不穏な空気が流れていました。

幾分か経った後に、山内が自身のYouTubeチャンネルで明かしました。「リレーというものをよく思っていない」「(ノブさんとは)二度と会いたくない」と正直な気持ちを吐露し、無視を続けた理由を語っていました。

いわば先パイと後輩の間で決別したような状態が続いていたのですが、山内は今後も怒りが収まらないと据わった目で語ってました。でもこれに関しては、芸人間のプロレスでありエンタメでもあるんでしょうね。たぶん…。

<セクション5>では、こういったリレーから考えてみたことを書きます

セクション5 リレー・チャレンジの本質とは

こういうリレー自体にはどうも近づきたくない、疲れたという人がいました。新型コロナの流行で外に出ることが減っていて、数少ない人との繋がりがSNSというのは必然の流れなので断りにくい。同調圧力が重くのしかかっていた人は相当数いるはずです。ある時に気が強い系のモデルさんが疑念を呈したツイートをしたときには、一般人から称賛と共感のコメントがみられました。

スタートしたそもそもの動機、それ自体は良いことだと多くのひとは思うでしょう。病気のひとの力になったり、コロナ禍を力を合わせて乗り越えようとするのですから。

ただリレーをしんどいと頭を悩ませている人が数多くいるのは軽視すべきではない。大義の下にその構造を正当化するのは、2つの別個のものをごっちゃにしています。まとめ売りでごまかすのは良くないと思います。

人それぞれ思うところがあるだろうけど、こういうリレー・チャレンジに関しては、参加するか不参加を選択する余地があるので、最終的には僕が価値をジャッジするようなものではないと思います。

そもそも平穏だった日々を思い返してみましょう。従来から主張が強い人もいれば優柔不断な人もいたわけです。そういった人たちが、協調性がないとか頼りないとか言われるのは日常茶飯事でした。逆にリーダーシップが取れるとか優しい人だとも言い換えることもできますね。どちらが優れているかなんて今すぐに議論して答えを出せるものではありません。永遠のテーマの1つですから。

ですので差し当たりは、リレーに参加する側と不参加の側の、どちらの立場も客観的に理解できたらいいのかと思います。そうやって思いやりを持てるのが理性ある一端の大人だと思いませんか?

ですがその選択が困難、いや無理といってもいいリレーがあります。<セクション6>で一緒に考えましょう。

セクション6 負の連鎖

目を背けたくなるリレーがあります。親による虐待です。

幼少期に親から虐待を受けていた人がいます。望ましい形での愛を受けることができなかった。十分に助けて支援してくれる大人にも恵まれなかった。そんな子どもはいずれ大人になり、辛かった思いも経験として残っています。同じ境遇を他人も受けて欲しいとは必ずしも思っていないでしょう。なのにやがて子を持つようになった時に、自分が虐待をする立場に替わってしまうことが多いのが事実としてあります。負の連鎖というものです。

...
僕だったらどうだろう。僕が最初に考えてみた解決策は、完全に成人した後にかつて虐待していた親に対峙することです。リスクは高いですが親が死んでしまった後は金輪際、その時になぜ虐待したのかを確かめるすべがなくなるわけです。

親の言い分を聞いて当時を知ることで、やっぱり酷い親だったと再確認する可能性は高いでしょう。ですが宙に浮いた負の感情が、やりどころが全くない状態からは何かが変わるのでは…。

しかし抑圧されて記憶として想起できなくなっている人の場合、それは適応的にブレーカーが落ちたという事です。無意識レベルでストレスから身を守った結果なので、平穏な生活を敢えて崩すべきものではないです。


あくまで僕自身の考えの一側面なので、そこは差し引いて捉えてもらえたらと思います。実際は正しい知識を身に着け、良きパートナーの間で愛に満たされていたら連鎖は断ち切れるかもしれないようです。何らかの形で負の記憶が昇華されれば同じ惨劇は繰り返されません。

悩んでいる当事者は多様なため紋切型にとはいきません。しかし行政サポートを利用するなどしたり、地域のひとで支え合って、1人で抱え込まなくてよい環境が整えられていくのを願っています。

かつて定説だった負の連鎖の考え方が、現在進行で見直されています。止められるかもしれないということだそうです。

<セクション7>でこれまでの種々のリレーをまとめて振り返ります。


セクション7 バトンのゆくえ

受け取ったバトンをどう処理するか。自らの意思で選択できる場合もあるし、選択の余地が少ないものもあります。道義的にいいバトンもあれば悪いバトンもあります。

次へバトンを渡すか、自分でバトンを止めるかは当人次第なのでジャッジはお任せします。ですが僕のスタンスを明示するなら、いかなるバトンであっても自分で完結させます。

確かなこととしてバトンというのは回ってきます。次にバトンを繋ぐのも正解の選択肢の1つなのは間違いありません。悪くはないでしょう。ですがその更に次となればどうですか?バトンが自分の目が届かない場所に行った以上、誰が何をして何を思っているかを知る由がありません。

それは自身の裁量として関与できるかどうかの問題です。もちろん1個人が世界のすべてに関与できるわけではないので、そこのどこに線引きするかですね。

<セクション8>では、先パイと飲みにいった居酒屋の場面を思い返します。

セクション8 再び居酒屋にて

最初の居酒屋での場面に話を戻しましょう。奢ってくれる先パイが言います。

「君も後輩に同じようにしてやってくれれば、それでええから」

僕はこういう状況で1つの提案をしてみたいと思います。

まず『立場替わって後輩に奢る』のではなく、先パイに直接報います。素晴らしいのは先パイであって、後輩は全くの別件だからです。

構造の一貫性を考えるなら、『自分が後輩だから奢ってもらえる』というのをいったん認めてしまったら、それは延いては自分にも跳ね返って来ます。

『自分も後輩に奢らないといけない』

#007-05 先パイにもしてもらったから

しかし慣習とかの外的な圧力だけでかわいげのない後輩に奢りたくないですよね。それであれば先パイであれ後輩であれ、2者間での関係にフォーカスして見てはどうでしょうか。

#007-06 先輩と自分と後輩と

それはつまり、こういうことでもあります。

『ご馳走したいというモチベーションが内面から湧き上がるような後輩がいたら、是が非でもご馳走してあげましょう。』

<セクション9>で実際に先輩に直接報いたいと思います。

セクション9 先パイにお返し

先パイに直接報おうと思いましたが、ちょっとした問題が出てきます。

「自分にも出させてください」とは言ってみたものの自分は後輩なので、正直なところお金がないんですね。どうしましょうか。

#007-07 何ができるだろうか

優しい先パイは2言目に新たな逃げ道を作ってくれます。「じゃあ出世払いでいいから」

困った事態になりました。『出世払い』という果たされないであろう約束でうやむやにすることに甘んじていいのか?自分は目の前にいる先パイに何ができるのか。それも『今この瞬間』に。

...

あなたは後輩です。あなたは1年目の新人です。ではあなたが持っている財産は何でしょう?むしろあなただからこそ持っているものは何でしょう?

次の<セクション10>で幕を引きます。

セクション10 エピローグ


日常のとあるオフィスのお昼休憩。気分転換に人気店の1000円ランチを食べにでました。ご馳走してくれた先パイには感謝の気持ちを伝えましょう。

#007-08とびっきりの笑顔

とびっきりの『千円分の笑顔』とともに

第7話 千円分の笑顔

おわり//

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