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心と記憶

 全くもって私個人の意見であるが、それがたとえどういうものであれ、匂いというものはひとの心と結びついているものだと思う。とはいえ、これが一般的にどう認識されているのかと少しばかり気にかかり幾つかの論文を読んでみたところ、匂いはやはり人の精神や記憶に働きかけるものであるらしい。私はこの匂いというものを、特に巡り行く季節の中で感じる。
 春、夏、秋、冬。すべて違う匂いが鼻を通り、心に落ちる。春は、草と花が芽吹き、命が目覚める匂い。夏は、むわりと湿度を持って肺に充満する匂い。秋は、夏の名残を残しつつ、郷愁を誘うあたたかい匂い。冬は、つんと細く真っ直ぐ抜けていく匂い。匂いの変化で、季節の移り変わりを感じる。歳を重ねるごとに、それらは幼少の頃を思い出す起爆剤として私に作用するようになった。
 春の陽気に包まれた柔らかい匂いは、新しい始まりに不安と期待の入り混じる心を懐古し、輝かしい未来を信じて疑わなかった無垢な子どもの頃を想う。
 夏の朝の、夜の湿り気と青さとを連れた匂いは、朝眠い目を擦りながら参加した地域の自治会のラジオ体操を思い出させる。夜に降った雨の滴を纏った草木の匂いが、身体にしっとりと張りついていた。
 秋の昼から夕暮れに移り変わる、影の伸びる時間の匂いは、夏に精一杯命を主張してほんの少しくたびれた緑の匂いが夕飯の匂いや仏壇の線香の香りと混ざり合って、寂しさと懐かしさを誘う。
 冬のまだ日の昇らない早朝の、凍てつくような澄んだ匂いは、すべてのものが眠りにつき、次の芽吹きを待つ胎動を感じさせる。早く目が覚めた日は、その静けさに畏怖を覚えていたことを思い出す。
 それらの記憶は褪せることなく匂いとともに蘇ってくる。季節が移ろっていくごとに肺に滑り込んでくる匂いも変わっていき、それぞれに想いを抱きながら、歳を、時間を、重ねていく。時折、鼻先をくすぐる匂いに涙の零れそうなほど鮮烈に心を揺さぶられることがある。心臓をぐっと掴まれ、帰ることのない時間をどうしても手繰り寄せたくなる。そうして、もう戻れない時の甘美さと残酷さに、どうしようもなく打ちのめされるのだ。その引力は抗いがたく、私は過去を通してしか現在や未来を見ることができない。積み上げてきた過去の上に現在が成り立っているのだから、完全に切り離してしまうことはできないだろう。それでも、記憶という呪縛は、私にとってあまりにも強い。それが嗅覚という五感に紐づけられているのだから尚更だ。匂いは過去の礎である。それを過去から未来への、希望への、指標へと昇華させることができたとき、私は本当の意味で、私の未来を見ることができるのかもしれない。回顧し、懐古し、そうして、絶え間なくやって来る未来に目を向ける。きっとそのときには、過去を縋りつくためのものではなく、その先にあるものに繋ぐための渡りとして、心の中に留め置くことができるはずだ。
 けれど、私が匂いというものに記憶の片鱗を見出だす限りは、私は過去に目を向けずして現在に立ち、未来へと進むことはできないだろう。私の心は未だ、過去の想い出に囚われている。

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