『言葉』というものについて
明けましておめでとうございます。昨年はどんな年だったでしょうか。今年はどんな年になるでしょうか。どんなひとでありたいでしょうか。
エッセイなぞというものは書き慣れていないもので、作法も何もよくわかりませんが、新年ですし、新たな試みとして、これから挑戦してみようかと思います。
さて、私はというと、昨年は環境が大きく変わったこともあり(言い訳ですね)、執筆に割ける時間も体力もなく、目標としていた「プロットを2作分あげる」を達成することができませんでした。「書きたい」と思う気持ちすら湧かないほどに時間に追われ、気がつけば一日が終わってしまっていたのです。しかし、そんな中でも年の瀬が近くなって来た頃に、ようやく本を読む時間を確保できるようになりました。そして、新しい年になったからということでもないですが、私は心持ちを改めました。これまで自発的に読んでこなかった種類の本も読むようになりまして、拙作で昇華できることも増えたので、今年の目標は、昨年に引き続き「プロットを2作あげる」ことにしました。
……と、ここまでつらつら書いてきましたが、これではただの私の目標宣言文ですね。どうすればエッセイらしくなるのでしょうか……。これも、今年の課題にしましょう。文字を扱うものの端くれとして、食わず嫌いはよくないですから。
さて、本をまた読むようになって、改めて感じたことがあります。
これは私の持論ですが、我々の言葉は、我々が触れた言葉から生まれると思います。綺麗な言葉に触れていれば、自分から紡がれる言葉も美しい。汚い言葉に触れていれば、自分の言葉も悪いものになってしまう。言葉に触れなければ、自分のなかから言葉は生まれてこない(つまり、半ば必然のように、私は『小説を書く』という行為ができない状態になっていたのです)。結局は自分のなかに積み上げられた言葉たちで、我々の発する文は構成されているのです。私たちの身体が、食べたもので作られているのと同じようなものです。よくないと言えばよくない部分ではあるでしょうが、私は創作をする前に読んでいた作家の方の文章に引っ張られる節があります。もしかしたらこれを読んでいる方のなかにも、同じ方がいらっしゃるかも知れませんね。これは、まだ「自分の言葉が紡げていない」ということでもあり、「これから如何様な言葉も紡ぎ出していける」ということでもある、と私は思っています。水のようなものです。何も色がついていないから、落とされた絵の具の色に染まり、形のない物体だから、入れられた器の形に収まる。私たちの言葉や心も同様に柔軟だからこそ、たくさんの言葉に、経験に触れなければならないのです。あくまで私の考えですけれどね。
私の言葉で誰かを救いたい、などと大層なことをいうつもりはありません。そうするにはあまりに稚拙なものしか、私の掌には乗っていませんから。それでも、もし、私の言葉を好きだと思ってくださるひとが一人でもいるなら、私は私の言葉を大切に育てて、日の下に出してあげたいと思います。誰もがそうなれば、世界は美しい言葉だけで一杯になるんじゃないか、と胸がわくわくするくらいには、私は言葉というものを大きなものだと考えています。
これを読んでくださる皆さんは、どんな言葉を心に持っているのでしょうか。どんな一年をこれから過ごしていくのでしょうか。大変な世の中も、少しは落ち着くでしょうか。ひとの数だけ出来事はあるでしょうけれど、皆さまも、どうかよいお年を過ごされますよう。