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ここにいること、先へ行くこと。

 小鳥の声とともに目を覚まし、開け放ったカーテンから射す朝日を浴びて深呼吸をする。冷たい水で頭を冴えさせて、朝食はこんがり焼けたトーストにスクランブルドエッグ、サラダ、はちみつをたっぷりいれた紅茶。食べ終えたらその日の気分で服を選んで……という朝のルーティーンがあればいいのだけれども、現実はそううまくいかない。気づかぬうちに目覚ましを止めていて、それに気づいてようやくぼんやりした頭に回路が通り、布団から勢いよく起き上がって一日が始まる。落ち着いた人間になりたいものだ、と眠りに就く前に願望が漏れる。そのままずぶずぶと夢も見せないベッドの中へ溺れて、朝が来れば勢いよく飛び上がるの繰り返し。
 そうして私の日々は慌ただしく過ぎていく。他の人と大差ないだろうとは思うが。何事もなく日々は未来から過去へと去っていく。毎日同じことが起きるわけもないが、そう大きく変化があるわけでもない。このままでいいのだろうか、とふと不安になることがある。先に待ち構える茫漠たる未来に、得体の知れない恐ろしさを感じる。歳を取ったな、と思う。何にでもなれると信じていた頃には、感じなかった恐怖。何をするにも足踏みしてしまうようになった。“このままでいいのだろうか。”一日のうち、一度は己に問いかける。気づかぬうちに、私は成長を止めているのではないか? このまま、停滞し続けたままでいるのだろうか? それでも、私は生温いこれを危機感もなく私の人生として享受してきた。この先も、漠然とした不安を時折感じながらも、ぬるま湯のような変わらぬ日々を過ごしていけるものだと信じて疑わなかった。

 2020年春、コロナウイルスで私たちの日常は一変した。非日常が日常を追いやり、多くの人が働き、学び、生きる時間や空間が大きく変わったのではないだろうか。かくいう私もその一人である。一日の大半を費やしていたものがぱったりと消え失せた。それと同時に部屋から出ることがなくなった。ウイルスからの籠城生活の始まりだった。家の中にあるもので工夫して食事を摂った。人と会わなくなって独り言が増えた。普段しないところまで掃除を始めた。あるものは不足し、あるものは豊かになった。私にも有意義な時間は過ごせるものなのだなと、ぼーっと無為な時間を過ごしながら考えた。目まぐるしく移り変わる世間に置いてきてしまったものたちをひとつひとつ拾い上げ、丁寧に磨いて並べていく。一日一日が、子どもだった頃のような濃密さで通りすぎていった。あの頃が戻ってきたのだ、と年甲斐もなく胸が躍った。
 何も大きく変わったことはなかったという人も中にはいるかもしれない。しかし、少なくとも私個人は、日常が大きく変化した、と感じている。家族の温かみに触れた。恋人との関係に溝が入った。離れていても支え合える友人の存在に気づけた。逆もまたあるだろう。社会も、経済も、人間関係も、己を取り巻くすべてを考え直す時間になった。そして、己自身の在り方も。しかし時が過ぎてこの生活にも慣れてくると再び怠惰が首をもたげてくる。これではいかんと喝を入れ直し、再び顔を上げる。この繰り返しをここ数日は繰り返してきた。その度に自分の欠点が見えた。それを修正して、また一日、二日と過ぎる。それすらも、ここ数年はできていなかったと記憶している。それがどうだろう。突き落とされた場所では可能になった。そうすることができるだけの余裕が、心にも身体にも、時間にも現れた。ここでは、私は己というものを遠くから俯瞰できる。必要以上にヒトや世間に惑わされることない、自分だけの空間。何と心地よいことか、と驚くと同時に、これまで如何に周囲に惑わされていたのかを突きつけられた。しかし、それに気づくことができて、再び昔のように周囲を見渡すことができるようになった。季節や天気の移ろいを匂いや肌で感じた。時々しか話さないからこそ、相手の言葉や纏う空気に心を傾けた。生活することは大変な期間になってしまったかもしれないが、心はゆったりと安らぐことができた。

 非日常に浸されたからこそ、見えてくるものが多くあった。もちろん悪いことも少なくはなかった。それでも、頭の隅に追いやられた価値観が再び顔を覗かせる。新しい知見を得る。そういうことに時間を使える期間になったと思いたい。少しずつ、本当に僅かずつではあるが、失われていた日常が戻ってきている。その恩恵を受けながらも、今回得た経験や価値観は見失わず、ひとつステップを踏んだ生き方をしよう、とこれを書きながら考えている。私の求めた日常は、その先にあるような予感がするから。

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