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変哲のない一日

 陽気がじんわりと指先に溜まる。柔らかい若草の匂いが香って、ピクニック日和だな、と思った。幸い今日は休日で、一昨日買い物に行ったおかげで冷蔵庫にも食材はたっぷりある。お弁当を作って近くの公園に行こう。そうと決めたら行動は早い。赤いチェック柄のエプロンをつけて、後ろ手に紐を結ぶ。隣県に住んでいる祖母が嫁入り道具にと拵えてくれたエプロンだ。嫁入り前だけれど、気に入っているのでよく使っている。朝炊いておいたご飯を三角に握り、軽く形を整えた後に海苔を巻きつける。うん、上出来。口角を少し持ち上げて、次の作業に取り掛かる。二口コンロをうまく使って、次々料理を仕上げていく。卵焼き、アスパラベーコン、ミニハンバーグ……。少し足りないと思い、冷暗所に入れた保存箱をのぞいてみると、少し芽の出かけたじゃがいもがあった。だめになる前に使いきってしまおうと、私はポテトサラダを作ることにした。芽が出ている部分はくりぬいて、ピーラーで皮を剥いてから水を張った鍋に放り込んでぐつぐつやる。よく蒸かしたら冷めないうちにマッシュして、他の野菜も合わせて、と目分量でさくさくと作業を進める。料理をすることは好きだ。その間は、料理のことだけに集中していられる。まずは下準備、次は、その次は……といった具合に。今はポテトサラダに集中する。
 いつの間にか没頭していた。痛んでいるものだけ使おうと思っていたのに、無心で作り続けていたポテトサラダはボウルから溢れ出さんばかりになっていた。予想外に多くなってしまったポテトサラダは、お弁当に入れて一人で食べきるには胸焼けしそうな量になったので、浩一にも協力してもらうことにした。昨晩残業から帰って来た後も自室で残った仕事をしていた彼は、昼前だというのにまだ寝ている。ピクニックに行かない? と声を掛けに、エプロンで手を拭いながら寝室へ向かう。
 来月入籍する予定の彼。ジューンブライドに憧れているんだ、と柔らかく微笑んだ浩一を尊重して、入籍日を決めた。書類ひとつで何かが変わるとは思えないけれど、法的な契約関係が生じることに、浩一はやけに固執していた。婚姻届けを出そうが出すまいが、私が彼を愛して、一緒にいることを決めたのに変わりはないというのに、何をそこまでこだわるのか私は理解できなかった。いずれその答えもわかるだろうと、深く問いただすことはしない。理由を話したくなるまでは気長に待っていようと思う。下手に掘り下げると、機嫌を損ねかねない。普段は温厚だけれど、半年に一度くらい、手のつけられないほどになってしまうことがあるのだ。非力な私ではどうしようもなく、落ち着くまでは黙って降ってくる手足に耐えるしかない。終わったあとはぶつけて擦り切れた傷や内出血痕がしばらく彼の癇癪を思い出させる。これが消えるまでの間は安寧が訪れてくれる。ちらりと袖から覗くことがあれば、ばつの悪そうな顔になるのだ。時々起こすこの癇癪以外は何も問題はない。この癇癪が何をきっかけに起こるのかよくわからないから、言動には気を遣う。彼が話したがらなければ聞いてはいけない、少しでも眉を顰めたり不機嫌そうな声音になったら触れないようにしなければならない。こんな調子でこれから大丈夫かしらと思案することもある。けれど、婚姻関係に執着のない私は、耐えられなくなったら関係を解消すればいいや、くらいに考えている。今はまだ、彼を突き放すほどではない。もしその時が来たらその時だ。戸籍に傷がつくだけで、私の人生には何も影響しないのだから。
「浩一、起きて。いい天気だから、ピクニックに行こう」
 ううん、と小さな唸り声がして、その後小さく開いた口から「わかった」と声がした。おおかた半分夢の中だろうが、一度軽く起こしたからそう遅くないうちに起きてくるだろう。キッチンに戻って粗熱のとれた料理を重箱に詰め始める。
 タオルケットやシートをかばんに入れ終えて、化粧も着替えも終わった頃に、パジャマを着替えているとはいえやや寝ぼけ眼のままの浩一がダイニングルームに入ってきた。無地の涼しげな水色のワイシャツに、真新しいジーンズを履いている。几帳面な性格の浩一は外出する予定がない日でもきちんとした格好をしていた。
「いいにおいがする」
 きょとんとした顔で言うから、寝室で言ったことをもう一度繰り返す。
「ピクニックに行きましょってさっき起こしたでしょう。そのお弁当を作っていたの」
 もう私の準備はできたから、浩一の準備ができたら出発しよう。
 私がそう言った途端に、浩一の眼の色が変わった。
「何。早くしろって言ってる? 俺が遅くまで寝てたのが悪いとでも言いたいの?」
 いつもより数段低い声が浩一の口から漏れる。しまった、と思った。
「そうじゃないの、楽しみだったから、気持ちが急いちゃっただけ」
「俺が昨日遅くまで仕事してたの知ってるよね? それなら多少気を遣って喋れよ。不快だ」
 ごめんなさい、と言う前に、平手打ちが飛んできた。ぱん、と乾いた音が左頬から聞こえた。ピリッとした感覚のあとに、じんわりと痛みが広がる。まだ昼だというのに、眼裏に星が浮かんだ。
 まただ。痣がきれいさっぱりなくなっていたから警戒しなければならなかったのに。しくじってしまった。今日はどれくらいかかるかしら。次の衝撃に備えて身体を強張らせる私を見て、浩一は我に返ったようだった。起き抜けの空腹にお弁当の匂いが効いたのかしら。平手打ち一つで終わるなんて珍しい。今の私にはありがたいけれど、近いうちにまた癇癪を起すかもしれない。暫くは言動に気をつけなくては。この調子じゃ、ピクニックも難しそうね。
 芋づる式にあれこれ考えを巡らせる私に、眉尻を下げた浩一の顔が近づいてくる。
「ごめんね。君のことを傷つけたかったわけじゃないんだ。わかってくれるよね? 痛かったよね、本当にごめんね、仲直りしよう」
 まくしたてながら私の頬を撫でる手つきは優しさだけのものに戻っていた。初めから私は怒っていないのに仲直りという言葉を使う浩一に違和感を覚える。それを悟られないように、うん、いいよと笑った。私の笑顔を見てほっとしたような顔をして、
「よかった。じゃあ、行こうか。出るのが遅くなっちゃってごめんね」
 と私の手を引いた。
 公園に向かう道中、浩一は不自然なほど饒舌だった。そうすることで自分の罪をなかったことにするかのように。いつもは言わないような私に対する褒め言葉も存分に聞いた。空気が気持ちいいね、なんて言葉も。白々しいと思いながら、私も彼の共犯者のようにわざとらしく笑ってみせた。

 シートの上に腰かけてお弁当を広げる。二人だけの小ぢんまりとしたピクニック。つつじの生け垣がぐるりを囲み、足元にはしろつめくさやおおいぬのふぐりが花開いている。この情景だけを切り取るなら、私たちは草花に祝福された、絵に描いたような仲睦まじい恋人同士だろう。少し赤みの残る私の左頬を除けば。
「このポテトサラダ、美味しいね」
 作りすぎたおかげで二段だけの重箱の一段の半分を占めるポテトサラダをもりもり食べながら浩一は笑った。普段の浩一の、無邪気な顔だった。今日の夕飯もポテトサラダになりそうよ、と笑い返しながら、仄暗い心の内に蓋をする。ああ、ずっとこの笑顔を貼りつけてくれていればいいのに。その間だけは、私も幸せでいられるわ。

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