29遊の域

極めたしあらゆることを遊の域

 平成九年に書いた年賀状のメッセージです。何事にも「遊び心」を持ってのぞみ、わくわくした気分で自分を満たしたい。今の私がいちばん極めたい心境です。
 役に立つ、立たないは度外視して、遭遇するあらゆることを遊びにかえてしまいたい。 目が覚めたとき、「さあ、今日も思い切り遊ぶぞ」という考えが何よりも先に湧くようでありたいのです。
 仕事とのやりとり、人との出会いはもちろんのこと、身の回りで起こることすべてに遊びの要素を見つけ出し、それをネタにして遊んでしまう能力を身につけたいと思うわけで す。
 欲を言えば、失敗をしたってそれを遊びの材料にできたらおもしろいと思います。成功へと導く過程がおもしろいと言われますが、そういう意味において失敗はいちばんの遊びの種ともいえるでしよぅ。
 私はものごとを遊びの世界に引きずり込んでしまうことを「遊の域に導く」と表現しています。
 そこではいかに遊ぶかを問題とし、価値観とか、成否とかはいっさい問題外としたいのです。
 たとえば人と話をするとき、相手が誰であっても、内容が何であっても、話題の中におもしろいことを見つけて楽しみたいのです。
 そういう目で見れば、普段、何気なく見落としていることの中にも遊べる要素をいっぱい見つけられます。
 遊びを極めようとすれば、日常を自己流に切り取る練習と姿勢が必要となり、とても難しいことなんだ、とわかつてきました。
 よく「遊んで暮らしたい」といぅ言葉を耳にしますが、これは多分に、嫌な仕事もせず、 努力もせずに気楽に日々を過ごしたい、といぅ意味を含んでいるように思えます。
 しかし、長いスパンでとらえると、そんな繰り返しにはいずれ空しさが襲ってくるでしょう。
 いくつになっても「子ども心」とか「遊び心」を失わない人は魅力的です。何が子どもらしさかと問われれば「無心に遊べること」と答えたいのです。損得や駆け引きなどにと らわれず遊べることがうらやましく思えます。
 大人にとっては「楽しむんだ」「遊ぶんだ」と自分に言い聞かせながら意識的にその状態に近づけるのが精いっぱいというのが正直なところなんじゃないでしょうか。
 確かに、まわりにとらわれず、心満たされて遊ぶとなると至難の業です。しかし、そんな状態が身の回りにないのかというとそうでもありません。たとえば、満員電車の中で本 の世界に没入したような状態などはその例に当たるでしよう。
 これを一つのモデルとして「遊の域」とは、他人との関係を超越した状態で、何事にもワクワクして取り組み、「おもしろい」が口癖になるような世界である、と定義していま す。
 実のところ、「仕事」と「学問」は遊びの宝庫です。
 いかに書類を作成するか、どのように人と折衝するか、いかに機能的に企画運営するか、 何を知り、どう活用するか など、遊ぶ材料がゴロゴロしています。
 「学ぶ」ことが遊びとなるなら「よく遊び、よく学べ」という諺は「よく遊び、よく遊ベ」となりますし、仕事が遊びとなれば一生、遊んで暮らすことになります。これらを「遊の域」に誘うとき、日々の行動がわくわくした気分に満たされ、一日の目覚めから 違ってくると思うのですが、いかがでしょうか。
 私自身、まだまだ「遊の域」で遊びきれておりませんが、少しでも領域を拡大して、いずれは極めたいと、もくろんでおります。
 遊の域を極め「毎日を遊びほうけ」て過ごし、臨終の言葉として「あ一、おもしろかった」と言って死ねることを私の理想としております。

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